竹原井頓宮

2018年11月25日

 竹原井頓宮(たかはらいのとんぐう)とは、奈良時代に柏原市内にあったと考えられている天皇の仮の宮のことです。奈良時代の歴史が記された『続日本紀』には「養老元年(717)2月、元正天皇が和泉宮から平城宮へ還る途中に、竹原井頓宮に宿泊した」と記されています。他に「竹原井離宮」、「竹原井行宮」という表記もありますが、基本的に同じと考えていいでしょう。いずれの記事も、平城宮と難波宮や和泉宮との往還途中の宿泊に利用されたと書かれています。

 平城宮から難波宮へは40km余り、和泉宮の位置については諸説ありますが、和泉市府中付近とすると50km近くになります。行幸過程において1日では無理な距離のため、中間地点にあたる柏原市付近に頓宮の造営が必要になったのです。

 竹原井頓宮は平城から難波へのほぼ中間地点にあたるだけでなく、大和川が狭い渓谷を流れる、離宮の景観に最適な土地でした。

青谷遺跡航空写真
青谷遺跡航空写真

青谷遺跡周辺
青谷遺跡とその周辺地図

奈良時代の離宮

 離宮・宮は交通が便利で景色の良い土地に建てられ、天皇の好みを反映していました。そして天皇が代わると利用されなくなり、廃絶されたところが多かったようです。基本的に離宮・宮の使用期間は20~30年程度で、利用する天皇は1~2名でした。

 行幸の際に天皇が宿泊した仮の宮を、『続日本紀』では離宮、宮、頓宮、行宮などと表記しています。『続日本紀』に複数回登場する離宮などに、甕原離宮、和泉宮、竹原井頓宮、芳野宮、小治田宮、弓削行宮、飽浪宮があります。

奈良時代の離宮
奈良時代の離宮

・甕原離宮(みかのはらりきゅう)
 京都府木津川市の木津川左岸にあります。対岸には恭仁宮が造営され、のちに山城国分尼寺が創建された地です。木津川に面した景色のいいところです。

・和泉宮
 和泉離宮、智努(ちぬ)離宮、珍努(ちぬ)離宮とも呼ばれ、和泉市府中付近にあったと考えられますが、その跡は確定できていません。海岸近くで景色がよく、元正天皇の愛した離宮でした。

・芳野(よしの)宮
 芳野離宮とも呼ばれ、吉野川右岸の宮滝遺跡がその跡です。吉野川が大きく屈曲する場所にあり、竹原井頓宮とも立地がよく似ています。

・小治田(おはりだ)宮
 飛鳥の雷岡の東で「小治田宮」と書かれた墨書土器が出土しています。古京である飛鳥の管理を兼ねた施設だったのでしょう。

・弓削(ゆげ)行宮
 旧大和川が久宝寺川と玉櫛川に分かれる八尾市東弓削付近にあったと考えられています。天平神護元年(765)、称徳天皇の紀伊行幸の際に同行していた道鏡の出身地・弓削に立ち寄るために臨時的な弓削行宮が設けられました。後にこれが離宮・副都に整備されたために「由義宮」、西の京と呼ばれるようになったと考えられています。

・飽浪(あくなみ)宮
 法隆寺の近くにあり、厩戸皇子(聖徳太子)を慕うために造られたのでしょう。

呼び名の区別

 これら複数回登場する離宮は、竹原井頓宮と弓削行宮以外、すべて離宮もしくは宮と表記されています。竹原井頓宮ものちに竹原井離宮となり、弓削行宮も整備され由義宮となっています。一方、一回しか登場しない仮の宮は、ほとんど頓宮または行宮と表記されています。どうやら離宮・宮と頓宮・行宮は明確に区別されていたようです。おそらく、離宮・宮は常設で瓦葺き建物、頓宮・行宮は臨時で掘立柱建物を伴うような施設だったのでしょう。

 また『続日本紀』では天平16年(744)までは離宮・頓宮であったのが、天平勝宝元年頃を境にして、宮・行宮という表記に変化するようです。この変化について、天皇の譲位に伴ったものか、表記だけ変わったのか、もしくは実際に呼称が変わったのかはわかっていません。このように離宮と宮、頓宮と行宮も使い分けられたようです。

平城宮から難波宮への行幸路

 奈良時代にもっとも頻繁に行われた行幸は、平城宮から難波宮への行幸でした。難波宮は副都と位置づけられ、一時的ですが正式な都にもなっています。聖武天皇のときには瓦葺きの豪華な宮殿として整備されました。

 平城宮から難波宮へ行幸を行う場合、まず平城京の朱雀大路を南へ向かい、羅城門付近から西へと向かって斑鳩へ至ります。法隆寺の前を進み、龍田大社を経て竜田道で竜田山を越えます。

奈良時代の行幸路
平城宮から難波宮への行幸路

竜田道のルート

 奈良時代の初めは、青谷付近で大和川を左岸へ、次に石川を渡ってそのまま左岸沿いに進んで四天王寺付近へ至り、難波宮朱雀大路を北進したようです。その大和川の渡河点付近の右岸に青谷遺跡がありました。

 奈良時代中頃、天平4年(732)ごろに難波宮が完成すると間もなく、青谷遺跡付近から一旦北の山中に入り、安堂付近に下ってから大和川を渡るように変更されたと考えられています。こちらのルートは起伏が激しく、十分な道幅の確保も難しいのですが、大和川を一度渡ればよかったのです。

 この変更により平群駅家、津積駅家が設置され、駅馬による連絡も可能となったのでしょう。また、柏原市安堂町付近には、大和川を渡る「河内大橋」と呼ばれる橋も架けられていました。このルート変更や河内大橋の架橋には、仏教を深く信仰する知識らの力が大きく影響したと思われます。

※津積駅家(つつみのうまや)…生駒山の西を南北に通る東高野街道は7世紀頃に設置され、平安時代には平安京から四国へ向かう南海道となりました。その南海道の駅の一つとして津積駅家が置かれていたと『延喜式』に記されています。駅家は緊急時の連絡等に使用する馬の乗り継ぎ施設で、津積駅家は柏原市安堂付近にあったと考えられています。

位置をめぐって

 竹原井頓宮の位置は、柏原市高井田とする説が有力でした。「竹原井」は「たかはらい」と読まれ、音の類似から「高井田」と想定されたようです。

 享和元年(1801)の『河内名所図会』以来、『大日本地名辞書』『大阪府全志』『中河内郡誌』などがほぼ同様の説をとってきました。江戸時代前期に成立したと考えられる『高井寺縁起』にも、

「夫往昔は此地を川田の原の竹原と謂り、今既に大県郡高井田の里と称す、竹原井とて霊水あり、又は石井と名く、古の人此水を呑は寿を延ると謂りとかや、太子(聖徳太子)此由を聞し召て推古天皇の御宇此竹原の井に出遊ひ給う」

とあり、古くから高井田が竹原井の地との認識があったことがわかります。

 『柏原町史』や山本博氏の『竜田越』でも同様の説でしたが、『柏原市史』本編Iにおいて山本昭氏は「竹原井頓宮は智識寺南行宮とも表記するため、智識寺(太平寺廃寺)の南側、太平寺から安堂にかけてをその跡」と考えました。『続日本紀』天平勝宝8歳(756)の記事にみえる智識寺南行宮の名称を重視した説です。

 これらの説に対して塚口義信氏は、竹原井頓宮と智識寺南行宮は別で、智識寺南行宮は山本昭氏の推定地に、竹原井頓宮は柏原市青谷に存在したと発表しました。以前から青谷廃寺は、平城宮跡と同范の軒丸瓦の出土から古代寺院跡と考えられていましたが、この青谷廃寺を竹原井頓宮の有力候補地としたのです。

 この説が昭和57年(1982)に発表され、2年後の発掘調査により礎石建物や石敷き遺構などを発見、塚口氏の説で間違いないとされるようになったのです。

青谷廃寺から青谷遺跡へ

 高井田横穴群がある丘陵から西へ張り出した台地上が、竹原井頓宮のかつての有力候補地でした。しかし過去数度の調査にもかかわらず、奈良時代の遺構・遺物は確認できていませんでした。

 ところが昭和59年(1984)、青谷廃寺にゴルフ練習場の建設計画が持ち上がり、発掘調査すると、石敷きの遺構や塼(せん・粘土を型に入れ焼き固めたもの)を使用した溝などが確認されました。そして保存を前提に、範囲拡大して調査した結果、瓦葺礎石建物が3棟、その周囲に石敷遺構なども発見されました。この大きな建物を囲む回廊状の遺構や建物の配置は寺院でなく、竹原井頓宮に伴うものとの判断がなされました。

 ただしこの遺構は8世紀中ごろのもので、それ以前のものは出土しておらず、8世紀前半に元正天皇が宿泊した竹原井頓宮は別の地に存在したようです。周辺から瓦などの出土がなく、おそらく掘立柱建物だったのでしょう。それを8世紀中ごろにこの地に移し、瓦葺建物として造営したと考えられます。なお大和川対岸には、竹原井頓宮にやや遅れて河内国分寺が建立されました。

 こうして遺跡名は「青谷廃寺」から「青谷遺跡」に変更されました。各地の奈良時代の行宮・離宮の調査が十分に進まない中、この調査は画期的でした。遺跡は調査後に埋め戻され、地中に保存されており、現在は見学できません。

青谷遺跡航空写真
赤の範囲が青谷遺跡の調査地、緑が河内国分寺跡

発見された遺構と遺物

 調査地の東寄りに礎石建物などの遺構が、調査地中央では溝で画された性格不明の方形の区画が見つかっています。また西は湿地状の地形で、遺構は認められませんでした。東寄りで発見された遺構は、調査地のさらに東、北へも広がっている可能性もあり、範囲は現在も確認できていません。

青谷遺跡調査図
青谷遺跡調査図

竹原井模型
青谷遺跡復元模型(製作:柏原市市民歴史クラブ)

 中央に規模の大きい建物1があり、その周囲には側壁に塼を使用した雨落溝がめぐっています。建物1の北には、柱間1間で東西にのびる細長い建物2、西には柱間2間で南北にのびる建物3があります。建物2と3は北西で接し、建物1を回廊のように囲んでいたと考えられます。
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 建物を建てる前に大規模な整地が行われたのか、整地層から8世紀初頭の遺物が出土しています。建物1~3の建築は、使用されていた瓦の年代観から8世紀中ごろと考えられます。8世紀後葉の土器を最後に遺物が見つからなくなるため、この時期に廃絶したのでしょう。
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調査地北
調査地全景(北から)

史料からみた竹原井頓宮

 『続日本紀』に竹原井頓宮の利用について記されるのは、養老元年(717)、天平6年(734)、天平16年(744)、宝亀2年(771)年の4回です。しかしこれ以外にも、神亀2年(725)、神亀3年(726)、天平12年(740)、天平17年(745)の難波宮行幸の際に利用された可能性が高いと考えられます。

養老元年(717)

 この年が竹原井頓宮の初見で、難波宮に行幸した元正天皇は、お気に入りの和泉宮へ行き、そこから平城宮への帰路に竹原井頓宮に1泊しています。その際に、河内・摂津2国と造行宮司および行宮造営を担当する郡司と大少毅らに身分に応じて禄を授けています。

※大少毅(だいしょうき)…日本古代の軍団職員。兵士引率の規模に対応して一軍団に1~2人の軍毅(大毅,少毅,毅)が任命された。
※禄(ろく)…宮に仕える者に支給される手当。俸禄。

 この前年に珍努宮(和泉宮)造営のために和泉監がおかれているので、ここにある「河内」は竹原井頓宮の造営に関わると思われます。竹原井頓宮はこの行幸に伴って造営されたようですが、「頓宮」と表記されていることから、当初は常設にするつもりはなかったのでしょう。

※監(けん)…奈良時代、大和国と和泉国に置かれた太政官直轄の特別行政区。芳野監・和泉監があり離宮がおかれた。

神亀3年(726)

 聖武天皇が難波宮の造営を決意し、藤原宇合を知造難波宮事に任命します。難波宮は天平4年(732)ごろほぼ完成したようです。

天平6年(734)

 難波で宅地の班給を行っています。この年には聖武天皇が新しい難波宮から平城宮の帰路に竹原井頓宮に2泊しており、この頃から常設として整備することになったと考えられます。その整備された瓦葺建物の離宮が、後に青谷遺跡で発見されています。別の視点から考えると青谷遺跡の遺構は、竹原井頓宮ではなく竹原井離宮のものといえます。この整備に伴い、河内国の安宿・大県・志紀三郡の田租が免除されています。

※班給…いくつかにわけて与えること。
※田租…租ともいい、律令制の税のひとつ。田地からの収穫物を首長に貢納した。

天平16年(744)10月

 元正太上天皇が珍努宮及び竹原井離宮に行幸しました。『続日本紀』で「竹原井離宮」と表記されるのはこの記事だけです。珍努離宮と併記されただけとも考えられますが、この時点で呼称が頓宮から離宮に変わっていた可能性があります。

 この行幸は11日に難波宮を出発、珍努離宮と竹原井離宮に1泊ずつし、あわただしく13日に難波宮へ還っています。元正の愛する珍努離宮はともかく、竹原井離宮にも立ち寄ったのは、この直前に離宮として整備されたためではないでしょうか。

天平勝宝8歳(756)2月

 『万葉集』の巻20-4457の題詞に、

「天平勝宝8歳(756)丙申二月朔乙酉廿四日戌申、太上天皇太皇大后河内離宮に行幸」

とあります。一般には「太上天皇、天皇、大后」の誤りと考え、聖武、孝謙、光明の3人が智識寺南行宮に宿泊し、これが河内離宮とされています。

 しかし「太上天皇太皇大后」とは、陽明文庫本の「太上天皇大后」とする例のように、「太上天皇と大后」すなわち聖武太上天皇と光明皇太后ではないでしょうか。

※陽明文庫…近衛(このえ)家に長年にわたって伝襲された古文書、古記録、古典籍などを保存管理する特殊図書館。「陽明」は近衛家の別称。近衛家はその家柄により各歴代のほとんどが摂政(せっしょう)・関白の要職につき、必然的に記録文書類の膨大な蓄積をみた。

 『続日本紀』には「天平勝宝8歳2月24日に、孝謙天皇が智識寺南行宮に行幸した」とあります。そして翌日の孝謙天皇の河内六寺参拝の記事に、聖武・光明の名はみえません。河内離宮は、参拝のために臨時的に設えられた智識寺南行宮ではなく、竹原井離宮と考えられ、聖武と光明は竹原井離宮に、孝謙は智識寺南行宮に宿泊したとすれば、『万葉集』の題詞も無理なく理解できます。

 このころ聖武は体調を崩し、難波宮から還って間もなく亡くなっています。体調の悪い聖武が、光明とともに景色がよく設備も整った竹原井離宮でゆっくりと宿泊し、河内六寺参拝は孝謙天皇に任せたのではないでしょうか。おそらく難波宮へ向かう途中で智識寺の盧舎那仏だけは聖武も参拝したことでしょう。

 そうだとすると、天平16年から天平勝宝8歳、すなわち740~750年代のころ、竹原井頓宮は常設の離宮として、凝灰岩切石積基壇で瓦葺きの立派な建物へと整備されていたと思われます。

 このあと、しばらく竹原井頓宮(離宮)は史料上にみえなくなります。孝謙天皇が重祚した称徳天皇も竜田道を利用していますが、弓削行宮・由義宮を造営したためか、竹原井離宮ではなく斑鳩の飽浪宮を利用しています。由義宮から近い竹原井頓宮は必要なくなり、さびれたのではないでしょうか。

宝亀2年(771)

 光仁天皇の行幸が竹原井頓宮について記された最後の史料で、

「戌申、車駕竜田道を取り、還りて竹原井行宮に到る。節幡の竿が故なく自ら折る。時の人皆執政亡没の徴なりと謂う」

とあります。この記録から竹原井頓宮が竜田道の沿線、もしくは終点付近にあったことがわかります。久々に登場した竹原井は、離宮から行宮へと格下げされています。この時、応急に宿泊できる状態に修理したため、行宮と呼ばれたと考えられます。

竹原井頓宮の造営をめぐって

 竹原井頓宮の造営着手を大宝元年(701)に遡らせる説もあります。

 『続日本紀』大宝元年8月の記事に「河内、摂津、紀伊等の国に行宮を造営するために遣いを派遣し、水行に備えるために38艘の船を造った」とあります。これを竹原井頓宮造営に伴うとする考えもありますが、これは関わりのない記事でしょう。大宝元年の時点で、都は藤原京にあり、竜田道沿いの竹原井頓宮を造営する必然性はありません。分国以前で和泉は河内に含まれており、記事が事実ならば和泉宮(珍努宮)造営に伴うと考えるべきでしょう。

 また竹原井頓宮は、厩戸皇子(聖徳太子)のころからあったとする考えもあります。

 『万葉集』の巻3-415に、「上宮聖徳皇子、竹原井に出遊でましし時に、竜田山の死人を見悲傷して作らす歌」があります。有名な「家ならば 妹が手まかむ 草枕 旅に臥やせる この旅人あはれ」の歌の題詞です。ここにみえる「竹原井」が竹原井頓宮の地を指すとされます。ただ『日本霊異記』では、この光景を大和川対岸の「片岡」のものとしているなど、「竹原井」という地名を重視できません。のちに頓宮がおかれた「竹原井」と、斑鳩に住み竜田道を往来したであろう聖徳太子とを結びつけたものでしょう。これも竹原井頓宮の造営とは関わりのないものです。

竹原井頓宮の変遷

 天平12年(740)に聖武天皇が智識寺の盧舎那仏を礼拝し、自らも大仏造営を祈願した頃、竹原井頓宮の改修、離宮の造営を思い立ったかもしれません。それから難波宮造営や竜田道の整備などと一連の事業として、天平16年までに竹原井頓宮は離宮として整備されたのではないでしょうか。おそらく青谷遺跡で発見された瓦葺建物がこれに相当すると考えられます。

 つまり青谷遺跡は、厳密には竹原井頓宮ではなく竹原井離宮の跡と考えられます。では、それまでの竹原井頓宮はどこにあったのか。現在のところ、まったく不明です。調査地からこの時期の遺物の出土はほぼなく、別の地にあった可能性が高いと考えられます。調査地北東の高台に平坦地が数カ所にみられ、その付近ではないでしょうか。

 いつの時期か、青谷遺跡の建物2・3は解体され、掘立柱塀に改築されています。なぜ解体されたのでしょうか。もちろん自然災害による倒壊なども考えられますが、由義宮造営のために解体され、再利用された可能性は考えられないでしょうか。

 称徳天皇は天平神護元年(765)に弓削行宮へ行幸した後に由義宮の造営に着手し、3年後には由義宮に行幸しています。由義宮は西京と呼ばれる宮でした。そして、由義宮行幸の際には飽浪宮を利用し、竹原井離宮は不要となりました。造営を急いだであろう由義宮に、竹原井離宮の建物の一部が再利用されているのではないでしょうか。由義宮の位置は現在も確定できませんが、いつか明らかになった時、そこから青谷式軒瓦が出土する可能性は十分にあります。

 宝亀2年(771)に光仁天皇が、離宮ではなく行宮と表記された竹原井行宮を利用しています。この際、緊急に掘立柱建物などを整備したのではないでしょうか。瓦葺きの建物1はそのまま残っていたと思われますが、明らかにできません。

 そしてその後、延暦3年(784)の長岡京遷都に伴って不要となった竹原井行宮はすべて解体され、大和川・淀川水運を利用して大山崎へと運ばれました。大山崎から青谷式軒瓦が多数出土しています。大山崎には河陽離宮や山崎駅などが設けられ、これらの施設で瓦や木材が再利用されたようです。そして竹原井頓宮は廃絶、1984年の発掘調査まで1200年間の長い眠りについたのです。

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