智識寺
知識と呼ばれる人々
知識(智識)とは、仏教を篤く信仰し、寺や仏像を造るために私財や労働力を提供した人々のことです。智識寺は、有力氏族が建てる氏寺とは異なり、おそらく大県郡を中心とする地元の知識によって、7世紀中ごろから後半あたりに建立されました。知識には一般民衆から有力者までさまざまな階層の人々が含まれ、孝謙天皇の行幸の際に、その邸宅を宿舎(行宮)に提供した茨田宿禰弓束女(まんだのすくねゆつかめ)のような女性もその一人と考えられます。
聖武、孝謙天皇と智識寺
智識寺は、聖武天皇とつながりの深い寺院でした。
天平12年(740) |
『続日本紀』によると、難波宮行幸の際に智識寺にあった盧舎那仏を礼拝し、東大寺の盧舎那仏の造立を思い立ったということです。知識集団や民衆によって建立、運営された智識寺の在り方は、聖武天皇の心の中に深く刻まれ、東大寺建立にも反映されたことでしょう。
天平勝宝元年(749) |
聖武から娘の孝謙に天皇位が譲位され、4月に大仏の鋳造が完成しています。
10月になると孝謙天皇は茨田宿禰弓束女(まんだのすくねゆつかめ)の宅を行宮(あんぐう・かりのみや)として、智識寺に行幸し、大県郡や周辺の志紀郡、安宿郡の人民に、また河内国の66カ所の寺院の尼僧などに施し物などを授けています。この行幸の目的は、大仏の完成が近付いた報告、お礼の意味があったのでしょう。聖武、孝謙天皇と智識寺の深い結び付きを窺わせます。
天平勝宝8歳(756)2月 |
『万葉集』によると、孝謙天皇は聖武太上天皇・光明皇太后とともに難波宮へ行幸し、河内六寺にも立ち寄っています。この前後には、聖武太上天皇の病が重いという記事がしばしばみられ、事実、平城宮に戻ってすぐ亡くなっています。行幸そのものが、かつて難波宮をたいへん愛した聖武天皇のために、病気平癒を願って行われたとも考えられます。またこの年に孝謙天皇が訪れたのは、前年に智識寺で高さ6丈の観音立像が完成したために、参拝したとみる説もあります。
智識寺の仏像
『扶桑略記※』には「応徳3年(1086)6月に、智識寺が顛倒し、6丈の捻像(塑像)の観音立像が粉々に砕けた」とあります。6丈という高さ(18m)はあまりに大きく、周尺6丈で12.6m程度とする説が妥当と考えられます。一方『続日本紀』では、東大寺大仏の手本となった智識寺の仏像は「盧舎那仏」となっています。
また大仏について、平安時代から鎌倉時代にかけての史料『口遊』や『二中歴』『拾芥抄※』には、「和太 河二 近三」などと記載され、「大和の太郎」が東大寺の大仏、「河内の二郎」が智識寺の大仏、「近江の三郎」が関寺の大仏とされています。
この「観音立像」と「聖武天皇の礼拝した盧舎那仏」、「河内二郎」とを混乱した記述がしばしばみられます。
『七大寺年表』には「天平勝宝7年(755)に、智識寺に高さ6丈の観音立像が完成した」とあり、これが事実とすれば、聖武天皇が礼拝した天平12年(740)に観音立像は存在しません。
周尺であれ6丈の観音立像が存在したなら、河内二郎はこの観音立像のことではないでしょうか。とすると、聖武天皇が礼拝した盧舎那仏は、必ずしも東大寺の大仏に匹敵する大きさの仏像ではなかったことになります。
※扶桑略記(ふそうりゃくき)…平安時代の私撰歴史書。総合的な日本仏教文化史。寛治8年(1094)以降に比叡山功徳院の僧・皇円が編纂したとされるが、異説もある。
※拾芥抄(しゅうがいしょう)…中世日本にて出された類書(百科事典)。歳時、経史、和歌、風俗、年中行事など公家社会に必要な知識や地図・図面類などが載っている。
仏像の材質
観音立像が塑像であったことは間違いないのですが、盧舎那仏の材質は不明です。
まず、東大寺の大仏と同様に智識寺の盧舎那仏も金銅製だったとすると、東大寺大仏でも苦労した銅や金の調達を、智識寺がどうしたかという問題があります。これについては、『造法華寺金堂所解』天平宝字5年(761)に智識寺から法華寺へ車12両の銅が運ばれたという記録があり、智識寺が相当な量の銅を蓄えていたことがわかります。また、金銅製ではなく銅製の可能性も考えられます。
また、盧舎那仏も観音立像と同じく塑像だったとする考えもあります。前述の『造法華寺金堂所解』に、法華寺から智識寺へ、盧舎那仏修理料として、朱沙、胡粉、緑青、煙子、墨などが送られたようです。これらは主に塑像に伴う顔料で、金銅仏などに使用する顔料としては疑問も残りますが、天平宝字5年には観音立像も存在したはずなので、塑像だったと断定することもできません。
「河内二郎」が観音立像だったとすると、聖武天皇が礼拝した盧舎那仏は、その大きさも材質も不明というより他にありません。
太平寺廃寺の調査
古くから太平寺廃寺が智識寺とされたのは、太平寺の東斜面上に位置する観音寺が「天冠山智識寺中門」と号し、「拾筒之内知識寺什物」と記す経机が残されていることや、寺の縁起に関連する記述があることなどによります。史料にも、智識寺は大県郡太平寺にあると記されています。
そして、地籍名や寛政2年(1790)の村絵図などから、東塔、西塔、中門の存在と位置を復元でき、間隔約50mの東西2つの塔をもつ薬師寺式伽藍配置※と推定されています。これらの資料から、太平寺廃寺が智識寺の跡であることは、ほぼ間違いないと思われます。
智識寺模型(製作:柏原市市民歴史クラブ)
1980年 |
大阪府教育委員会の発掘調査によって、東塔跡から一辺16.8mの基壇の一部を確認。基壇は雨落溝の様子から二段になる重成基壇のようです。下成基壇一辺長20.8m。 |
1995年 | 寺域の東寄りを調査、難波宮跡出土瓦と同笵の蓮華文軒丸瓦が出土しています。 |
2004年 | 推定金堂跡を調査、少量の瓦や土器が出土したのみで顕著な成果はあげられませんでした。 |
2007年 | 東塔跡の調査。基壇西辺と礎石抜き取り跡1箇所を確認。 |
塔跡以外は確認できておらず、寺域も不明です。
東塔の心礎と瓦
現在、東塔跡と推定金堂跡が大阪府の史跡に指定されています。東塔から出土した心礎は、現在石神社の境内に移されおり、間近で見ることができます。
東塔の心柱礎石
心柱を受ける部分は二段に彫りこまれ、外側の柱穴は直径122cm、内側の柱穴は直径75cmです。外側の穴が心柱の直径と考えられます。この礎石には釈迦の遺骨である仏舎利を納める孔がありません。おそらく舎利孔は、西塔の礎石に穿たれていると思われます。
石神社の境内にある心柱礎石
瓦
素弁蓮華文・単弁蓮華文・重弁蓮華文・複弁蓮華文・重圏文軒丸瓦、重弧文・均整唐草文・重廓文軒平瓦・葡萄唐草文鴟尾などが出土しています。これらは、より南に位置する安堂廃寺や鳥坂寺跡のものに似ています。鳥坂寺跡と同じ7世紀中頃の素弁蓮華文もありますが、ここでは重弁や複弁蓮華文が目立ちます。おそらく7世紀後半から8世紀にかけて、寺院の整備が進んだのでしょう。
また現在は奈良国立博物館に寄託され、重要美術品に指定されている葡萄唐草文鴟尾片は、ここから出土したものと伝えられています。智識寺の豪華さを物語る遺物の一つでしょう。同様な鴟尾は、難波宮跡から出土したものと本例の2例のみです。
これらから智識寺の創建は7世紀中頃から後半と考えられ、そうすると薬師寺式伽藍配置の寺院では、698年にほぼ完成したとされる本薬師寺※よりも、古い時期に建立されたことになります。
※本薬師寺(もとやくしじ)…奈良県橿原市の「藤原京の薬師寺」と呼ばれた寺院。後に持統天皇となる皇后の病気平癒を祈って天武天皇が建立を誓願した官寺である。平城京遷都で薬師寺が西ノ京に移ると、西ノ京の「薬師寺」と区別するために「本薬師寺」と称されるようになった。
その後
貞観年間(860年代)には智識寺に修理料を与え、河内守であった菅野豊持を智識寺仏像修理の別当に任命するなど、官寺としての扱いを受けていた時期もあったようです。その後も、藤原頼通が参詣するなどの記録がみえますが、『扶桑略記』に、応徳3年(1086)智識寺が顛倒し、観音立像が崩壊したとあり、それ以後智識寺に関する記録はみられなくなります。