智識寺南行宮
奈良時代の行幸
現代でも天皇がお出かけされることを行幸(ぎょうこう)といい、警備などで大変な騒ぎになりますが、古代においてはもっと仰々しいものでした。天皇とともに大臣らも同行し、政治機能がそのまま移動するようなものです。それでも、天皇は政治的所用、寺院参拝、保養などを目的にたびたび行幸を行いました。
『続日本紀』では行幸のことを「幸」・「車駕(しゃが)」とも表記されており、奈良時代の行幸は80回前後の記録があります。京内の寺院への参拝や官僚の宅への外出を含むかなどでこの回数は変わりますが、平均して年1回程度の行幸がありました。
離宮・宮・頓宮・行宮
行幸の際に宿泊した施設は、離宮、宮、頓宮(とんぐう)、行宮(あんぐう)などと表記されました。『続日本紀』に複数回登場する離宮は基本的に離宮・宮、また1度しか登場しないところは頓宮・行宮と区別され、離宮・宮が常設、頓宮・行宮は臨時の施設と考えられます。この呼称が変化する場合もあり、表記だけ、もしくは実際に呼称が変わったのかはわかりません。
離宮・宮は交通の便利や景色の良い土地に建てられ、天皇の好みを反映していました。そして天皇が代わると利用されなくなり、廃絶されたところが多かったようです。多くの離宮・宮において使用期間は20~30年程度で、利用する天皇は1~2名でした。
智識寺南行宮
奈良時代の柏原市域には、孝謙天皇が河内六寺行幸に利用した、智識寺南行宮(ちしきじみなみのあんぐう)がありました。『続日本紀』に天平勝宝8歳(756)2月の行幸の際に「ここに4泊して難波に向かい、その帰路にも智識寺行宮に2泊した」と記されています。この「智識寺行宮」は智識寺南行宮と同一と考えて問題ないでしょう。
なお、その7年前の天平勝宝元年(749)10月の行幸では、茨田宿禰弓束女(まんだのすくねゆつかめ)の邸宅が、智識寺参拝のための行宮として提供されています。この時の行宮が、後の智識寺南行宮となるのかはよくわかっていません。
智識寺南行宮は智識寺(太平寺廃寺)の南、智識寺と竜田道、智識寺と家原寺(安堂廃寺)の間に存在したと考えられています。その範囲には安堂遺跡があり、調査で木簡などが出土しています。
安堂遺跡の調査
赤が調査地
1985年 |
行宮推定地の一画を調査すると、土坑内から多量の木製品などとともに、6点の木簡が出土しました。その木簡のうち1点には「若狭国遠敷郡(わかさのくに おにゅうぐん)野里からの調塩三斗」と書かれていました。「若狭国遠敷郡野里」は現在の福井県小浜市あたりに相当します。さらにこの木簡の裏には「天平十八年九月」とありました。これは荷物にくくりつけられた「荷札木簡」と考えられ、天平18年(746)に税として平城京へ納められた塩3斗(約22kg)が、何らかの理由でこの地にもたらされたようです。なお、この木簡を含む6点すべてが、「安堂遺跡出土木簡」として市指定文化財になっています。
若狭国遠敷郡野里からの荷札木簡(表と裏)
また同じ土坑から、物差しや建築廃材、へら、杓子、曲物の蓋、箸や桃、瓜、胡桃、栗、瓢箪などが出土しています。これらは、行宮にするための茨田宿禰弓束女の宅の改修工事か、智識寺南行宮整備に伴う工事関係者への配給や、宴などの可能性が考えられます。
1987年 |
1985年の調査地より南を調べると、奈良時代の土器や素弁蓮華文軒丸瓦と均整唐草文軒平瓦が出土しました。しかし、量や年代からも智識寺南行宮が瓦ぶきであった可能性は少ないようです。これらの瓦は智識寺(太平寺廃寺)、または家原寺(安堂廃寺)に伴う瓦と考えられます。
その他、掘立柱建物や柱列なども検出されていますが、年代はおそらく7世紀代に遡り、智識寺南行宮に直接関連する遺構ではないようです。
茨田宿禰弓束女宅と智識寺南行宮
智識寺南行宮の造営時期を示す史料はありませんが、天平勝宝元年以前に存在していれば、わざわざ弓束女宅を利用しないと考えられ、天平勝宝元年10月から8年2月までの間に造営されたことになります。
平城京や地方官衙以外の場所で「調」の文字がある木簡が見つかるのは極めて稀で、「長登胴山」(山口県美祢市)や「飛鳥池遺跡」(奈良県明日香村)などの官営鉱山・工房で見つかっています。よって、安堂遺跡で何らかの公的事業があったことは間違いなく、その公的事業は多量の削り屑が出土したことから、施設建設とみられます。出土した木簡「若狭国遠敷郡~」の裏の「天平18年(746)9月」の文字や土器の年代から、天平勝宝元年(749)か同8年(756)の行幸に関連する公的事業が考えられ、次の3つのケースが想定されます。
- 弓束女宅を改修した「行宮」が、そのまま「智識寺南行宮」として利用された。
- 弓束女宅の「行宮」は一時的なもので、その後さらに改修・整備が進められて「智識寺南行宮」が完成した。
- 弓束女宅の「行宮」は一時的なもので、近くの別の地に「智識寺南行宮」を建設した。
1は工事が1回で、2では同じ場所で2回、3では場所を別にして2回工事が行われていることになります。残念ながら発掘調査では、どれにあたるのかわかりません。今後も智識寺南行宮の性格を詳しく検討する必要があるでしょう。
天平勝宝元年10月の行幸 |
単なる寺院参詣ではなく、目前に迫った東大寺盧舎那仏鋳造の成功祈願とする説があります。実際、10月24日に鋳造が完了しており、その説に従えば、この行幸はかなり重要な行事に位置づけられます。記事の続きをみると、
・9日
智識寺を参拝し、行宮とした弓束女宅へ
・14日
石川へ行幸し、志紀・大県・安宿郡の人民に真綿を授け、三郡の人民が負っている正税の本稲と利稲を、その他の郡は利稲を免除し、付き従った官人にも真綿を授けた。
・15日
河内国の寺66区の僧尼などに絹布や真綿を授けたほか、外従五位下の茨田宿禰弓束女には正五位上の位を授け、大郡宮(所在地不明)に帰った。
天平勝宝8年2月の行幸 |
・24日 智識寺南行宮へ
・25日 河内六寺を参拝
・26日 河内六寺に施し物
・28日 河内国の諸社に稲、難波宮の東南新宮へ
・3月2日 河内・摂津国の租を免除
智識寺南行宮の造営について 安堂遺跡で出土した「天平18年(746)に若狭国遠敷郡から納められた調塩に伴う荷札木簡」を智識寺南行宮造営に結びつけて考えることもできますが、智識寺に寄進されたものの可能性もあります。 出土したこの他の木簡に、「近江国浅井郡田根郷」(滋賀県長浜市高畑町あたり)などの地名がみえるものがあります。
これらは、知識である有力者から寄進された米などに付されていた木簡ではないでしょうか。あるいは智識寺の寺領がその地にあったかもしれません。 木簡が出土した土坑からは、杓子や箸、曲物とともに桃・ウリ・クルミ・粟・ヒョウタンの種子や平城宮以外ではほどんど出ない箸が出土し、天皇の行幸に伴う供宴の可能性が高いと考えられます。また出土した種子は、すべて夏から秋にかけての果実のもので、天平勝宝8歳の行幸は2月であり、これらは食べられなかったでしょう。天平勝宝元年の行幸は10月で、時期が遅いように感じますが、これらを食べることができたと思われます。 種子と木簡、建築廃材などが一括で出土していることから、これらは木簡の年代より3年後、天平勝宝元年(749)の遺物である可能性が高く、茨田宿禰弓束女の宅を行宮に改造した廃材、行幸の際に智識寺に寄進された塩、饗宴の残滓などが廃棄されたと考えられます。だとすればこの地は、茨田宿禰弓束女の宅地内と考えて問題ありませんが、同じ地に智識寺南行宮も造営されたのかはわかりません。弓束女宅と智識寺南行宮は、基本的に区別して考えるべきでしょう。 |
河内大橋
智識寺南行宮は竜田道を下って山裾へと下りてきた地に造営され、そのすぐ西を流れる大和川には天平勝宝6年(754)に改修になった河内大橋が架橋されていたと推測されています。河内大橋の改修は、智識寺南行宮の造営や智識寺への行幸と無関係になされたとは考え難く、行幸を華やかにする目的もあったと考えられます。河内大橋へ