青谷遺跡で発見された遺物
青谷式軒瓦
瓦は調査地全域、とりわけ建物1の雨落溝周辺から多く出土しています。そしてそれらの大半を占める複弁七葉蓮華文と均整唐草文軒平瓦のセットは「青谷式軒瓦」と呼ばれ、青谷遺跡の建物建築のために生産されたものです。これらは平城宮の瓦を手本にしたらしく、平城宮の瓦の年代観から、8世紀前半から中ごろのものと考えられます。
青谷式軒瓦
青谷式軒瓦は、大和川の対岸にある河内国分寺跡や、藤井寺市の誉田御廟山古墳(応神陵)の北側でも出土しています。誉田御廟山古墳は河内国の国府に近く、この北側一帯に瓦窯があり、青谷式の軒丸・軒平瓦が焼成されていたようです。中央政権との深い関わりが想定され、官営だったかもしれません。
また、京都府大山崎町の大山崎遺跡群からも多数出土しています。ここから出土する青谷式軒瓦はその造り方や粘土の質なども一緒で、竹原井頓宮の廃止後、瓦の再利用のため大山崎へ持ちこまれたと考えられます。
複弁七葉蓮華文軒丸瓦
文様が確認できる軒丸瓦78点中72点を占めています。蓮華文は蓮の花を上から見た文様を描いたもので、花弁が二枚一組となり、7箇所に配されて一周しています。弁と弁の間は界線と呼ばれる線で区切られていますが、この軒丸瓦は、その界線を一箇所だけ欠いているのが特徴です。この特徴によって同范の認定が容易になっています。瓦当直径は16.4cm前後で、中房の連子の配置は1+6、蓮弁の周囲には珠文と線鋸歯文がめぐっています。
複弁七葉蓮華文軒丸瓦
弁間界線の欠落
瓦当と丸瓦の接合を強化するため、丸瓦の凸面、凹面、端面などに鋭い線を数本刻んだものが多くみられます。この丸瓦を、瓦当裏面の上端から2cmほど下がった位置に当て、周囲に粘土を補って接合しています。しかし、この接合部分で分離したものが多くみられ、あまり効果はなかったようです。
接合状況のわかる軒丸瓦
これらの他にも、複弁八葉蓮華文軒丸瓦・単弁十六葉蓮華文軒丸瓦が1点ずつ見つかっています。
複弁八葉蓮華文軒丸瓦(平城宮系6303A型式)
複弁八葉蓮華文軒丸瓦(平城宮系6272A型式)
複弁八葉蓮華文軒丸瓦(平城宮系6225L型式)
単弁十六葉蓮華文軒丸瓦
均整唐草文軒平瓦
軒平瓦は、すべて均整唐草文の青谷式軒平瓦です。中心飾りから3葉の唐草が左右へ5回反転し、外区には珠文がめぐっています。これらの瓦は珠文の数や配置、巻き込み具合などの異なるA~Cの3種類の范で製作されています。
出土した全軒平瓦49点のうち、A~C種の区別ができるものが36点、内訳がA種2点、B種1点、他はC種となっています。区別できないものも、大半はC種とみられています。青谷遺跡以外からの出土例は、A種はなく、B種も非常に少ないようです。河内国分寺跡ではC種のみ出土しています。
軒平瓦A種(脇区に珠文がない)
軒平瓦B種(唐草が丸みをもち、巻き込みが強い)
軒平瓦C種(唐草が細く、巻き込みが弱い)
この実態から、A・B種は何かの都合でうまく生産できなくなり、C種のみを使用することになったのでしょう。そう考えると、青谷式軒瓦は青谷遺跡の建物の屋根用に生産が開始され、その後河内国分寺などにも供給されたようです。よって青谷遺跡の造営は、河内国分寺にやや先行すると考えられます。
ほかの瓦
瓦の名称図(坪井清足『飛鳥の寺と国分寺』 1985より)
丸瓦
大量に出土していますが、小片が多く、完存するものはありません。大半が「玉縁式」と言われる狭端面に一段下がって玉縁をもつものです。玉縁凸面の端面近くに稜線・沈線がみられるものがあり、これが青谷遺跡の丸瓦の特徴となっています。同じ特徴のものが、大山崎遺跡群からも出土しています。
丸瓦(左が玉緑式)
玉緑部の稜線と沈線
平瓦
溝5の北端、建物2と3の間の暗渠に使用されていたものが良好に残っていました。凸面には縄叩き目、凹面には布目、最終調整として行われた糸切りの痕跡などがみられます。
平瓦
面土瓦
面土瓦は、焼成前に両側が円弧状にえぐられ、三角形状のかたちになります。面土瓦は棟に使用され、このえぐられた部分に丸瓦が組み合い、棟脇のすき間を覆います。
面土瓦
塼(せん)
直方体のレンガのような焼物です。建物1周囲の雨落溝の側面に使用されていました。
塼
土器
土器など瓦以外の遺物の出土はごくわずかで、この地は生活の場ではなかったことを示しています。
・建築前の整地層から、8世紀初頭ころの須恵器・土師器が若干出土しています。ここから瓦は出土していません。
整地層から出土した土器
・建物1周囲の雨落溝やその周辺から、8世紀中ごろ~後葉の土師器の坏、坏蓋などが若干出土しています。
雨落溝から出土した土器
・建物2の北側の石列に伴うとされる溝3から、8世紀後葉と思われる土師器高坏が出土しています。
溝3出土土器
以上から、8世紀初頭から中葉の間に整地し、中葉から後葉に建物が利用されたと推定され、8世紀初頭の土器は整地土を採取した場所にあったようです。煮炊き用土器はほとんどなく、食器類を中心に出土したことから、調査地内では煮炊きせず、調理場は調査範囲外にあったと考えられます。そして廃絶のためか、遺物は8世紀後葉のものを最後に見られなくなります。