河内六寺
河内六寺とは
『続日本紀』に天平勝宝8歳※(756)2月条に「戊申(つちのえさる)、是日、至河内国、御智識寺南行宮、己酉(つちのととり)、天皇幸知識、山下、大里、三宅、家原、鳥坂等六寺礼仏」という記録が残っています。「天平勝宝8歳2月24日、孝謙天皇が難波宮行幸の際、柏原に立ち寄り、知識、山下、大里、三宅、家原、鳥坂の六寺を参拝した」という内容です。この六つの寺を「河内六寺」と呼んでいますが、この呼称は『続日本紀』にはなく、便宜上総称したものです。いずれも7世紀後半に創建された寺院で、推定地の位置関係から記載順に参拝したとする説が有力です。
※天平勝宝の表記…天平勝宝7年(755)1月4日、勅命により「年」が「歳」に改められ、これ以後7歳~9歳と表記されたが、天平宝字へ改元した際に「歳」を「年」へと戻している。
孝謙天皇の行幸
756年 2月24日 |
平城宮から難波宮に行幸する途中で智識寺南行宮に立ち寄る |
25日 | 河内六寺に行幸し、礼仏する |
26日 |
行幸の護衛などを務める内舎人を六寺に遣わして、僧侶に誦経させ、寺に施し物をする |
28日 | 大雨の中を智識寺南行宮から難波宮に向かい、東南新宮に入る |
この間、智識寺南行宮に4泊したことになり、行幸途中に立ち寄ったというよりも、六寺に参拝することが行幸の一つの目的であったと考えられます。
4月15日 | 帰途に智識寺(南)行宮で宿泊 |
17日 | 平城宮へ帰る |
5月2日 | 聖武太政天皇が亡くなる |
この行幸には、聖武太政天皇と光明皇太后も同行し、「河内離宮に宿泊した」と『万葉集』に記されています。「河内離宮」は智識寺南行宮と考える説が強いのですが、当時河内で最も整備されていた竹原井離宮(柏原市青谷)を指す可能性が高いと考えられます。
体調が優れない聖武太政天皇は竹原井離宮で休み、河内六寺の参拝は控えたかと思われます。ただ、智識寺に対する聖武天皇の思い入れはかなり強かったと思われ、大仏開眼供養が無事に済んだお礼や、自身の体調の快復も願って、智識寺だけには参拝しているかもしれません。
天平12(740)年の2月、難波宮に行幸した聖武天皇は、智識寺の盧舎那仏を拝観したことが東大寺の盧舎那仏造立の機縁となったと、『続日本紀』に記録されています。 |
また『続日本紀』に記載はありませんが、孝謙天皇は天平勝宝元年(749)10月に智識寺に行幸しています。この2回の行幸時に孝謙天皇が滞在したのが、「茨田宿禰弓束女(まんだのすくねゆつかめ)」の宅と「知識寺南行宮」です。
六寺はどこか
まず孝謙天皇の参拝順について、山本昭氏が『柏原市史』において、智識寺南行宮は智識寺のすぐ南にあたり、そこから北へ智識寺、山下寺、大里寺、三宅寺と参拝し、南へ戻って、家原寺、鳥坂寺と巡拝したとする説を出されました。次に各寺院は、地名等から智識寺が太平寺廃寺、山下寺が大県南廃寺、大里寺が大県廃寺、三宅寺が平野廃寺、家原寺が安堂廃寺、鳥坂寺が高井田廃寺にそれぞれ該当すると考えました。そして、この説を裏付けるように、大県廃寺から「大里寺」、高井田廃寺から「鳥坂寺」と書かれた墨書土器が発見され、山本氏が考えたように『続日本紀』の記述は参拝順に記されていることが有力視されています。
ただ現在でも、三宅寺については十分明らかにできていません。平野廃寺の推定地からは、十数回の調査にも関わらず、古代寺院に関連する遺構・遺物は確認できていません。採集されている最古のものは平安時代の瓦です。『続日本紀』の参拝順では、三宅寺は六寺の最北端にあたりますが、大県廃寺より北には、まとまって瓦を出土する地は知られていません。三宅寺の候補地は、さらに北の八尾市の教興寺や高麗寺跡とする説もあります。あるいは神宮寺廃寺と考える説もあります。三宅寺の位置については、今後に残された課題です。
再度孝謙天皇の足跡をたどると、一行は智識寺南行宮を発ち、北の智識寺にまず参拝、そこから後世に業平道ともよばれる道をたどり、北の山裾にある山下寺、さらに大里寺、三宅寺と巡拝しました。三宅寺から後世の東高野街道を南下すると、家原寺に至ります。さらに南へ進んで鳥坂寺を参拝し、智識寺南行宮へと戻ります。三宅寺を平野廃寺として約5km、高麗寺跡とすると約12kmとなり、いずれにしても、1日で巡拝可能な距離です。
六寺は誰が建てたのか
智識寺はその名称から、仏教に帰依する知識によって建立されたことは間違いないでしょう。それでは他の5か寺はいったい誰が建立したのでしょうか。
一般に、古代寺院においては官寺、智識寺以外は氏寺とされます。氏寺とは、氏族が繁栄を祈って建立した寺院のことです。智識寺以外の河内六寺も氏寺とすると、各寺院を建立したのは何氏なのでしょうか。
氏寺とすると
山下寺を大県主、大里寺を大里史、三宅寺を三宅史、家原寺を家原連もしくは茨田連、鳥坂寺を鳥取造などの氏寺とする説があります。また『柏原市史』では、大里寺を大県郡の大領※の氏寺に比定しています。しかし大県郡で有力な氏族と考えられるのは、自宅を行宮として提供した茨田宿禰、史料にしばしばみられる下村主ぐらいで、古代寺院を建立するほどの氏族が存在したか疑問です。しかも各寺院が400~500mの間隔で建立されていたとすると、建立氏族の基盤も400~500m四方しかなく、果たしてその程度で天皇が参拝するほどの寺院が建立できたのでしょうか。
※大領…律令制で、郡司の長官。大国の領主。
この中で、家原寺の建立に茨田氏が、鳥坂寺の建立に鳥取氏が関わっている可能性は高いと考えられます。家原寺については、医王寺旧蔵の大般若経の奥書に家原里(邑)の知識の名が連ねられ、牟久史2人ほか、伯太造、牧田忌寸、物部、下村主とさまざまな氏族が家原里に居住していたことを示しています。ここには、茨田氏・家原氏の名前はありません。
鳥坂寺は、鳥取氏の祖である天湯河板挙命(あめのゆかわたなのみこと)などを祀る天湯川田神社の境内に塔跡が存在することから、鳥取氏との深い関係が考えられます。しかし、鳥取氏の本拠は鳥取郷(柏原市青谷周辺)であるのに、どうして鳥坂郷に寺院を建立し、寺院名も鳥坂寺としたのでしょうか。鳥坂寺跡出土の平瓦に「玉作阝飛鳥評」(たまつくりべあすかのこおり)の線刻がみられます。この瓦を大和川対岸の安宿郡(あすかべのこおり)に居住する玉作部からもたらされたと考えると、鳥坂寺も鳥取氏だけで建立されたのではないとも考えられます。
知識が建てた可能性
この地域に有力な氏族はいませんでしたが、智識寺の建立や河内大橋の改修にみられるように結束力の固い知識集団が存在していました。これらから智識寺以外の寺院も、知識によって建立されたのではないかと考えられます。有力な知識が、家原寺の茨田氏であり、鳥坂寺の鳥取氏だったのでしょう。
また大県郡とその周辺の知識の援助を受けて建立されたものと考えれば、狭い範囲に密集して寺院が建立されている理由が理解できます。その中心的存在が智識寺であり、そのように建てられた六寺であるからこそ、孝謙天皇も参拝したのではないでしょうか。
河内六寺が知識によって建立されたとする説や、氏寺の成立は平安時代以降であるとする研究は既にあります。寺院を氏寺と決めつけて建立氏族を探すだけでなく、さまざまな角度から寺院の造営について検討する必要があるのではないでしょうか。