大里寺
山下寺の次に参拝された大里寺は、柏原市大県4丁目の大県廃寺がその遺跡と考えられています。「おおさとでら」と呼んでいますが、正しくは「だいりじ」の可能性もあります。周辺には「大龍(竜)寺」という字名が残り、「だいりょうじ」もしくは「だいりゅうじ」と読まれています。この「大龍寺」が大里寺の名称を伝えているならば、「だいりじ」が「だいりょうじ」に変化したと推測でき、この地が大里寺とされる所以となっています。
また『新撰姓氏録』にみる中国・秦系渡来人の大里史が大里寺を建立し、大県郡の在地氏族を押さえるため中央政権から大県郡の大領に任命されたとする考えもあり、郡の長官である大領の寺としての「大領寺」が「大龍寺」に転化した可能性も指摘されています。
※『新撰姓氏録』(しんせんしょうじろく)平安時代初期の815年(弘仁6年)に、嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑。京および畿内に住む1182氏を、その出自により「皇別」・「神別」・「諸蕃」に分類してその祖先を明らかにし、氏名(うじな)の由来、分岐の様子などを記述した。
寺の範囲
寺域は南が鐸比古神社の参道まで、北が堅下小学校の南の東西道までの南北140mと推定されています。東西も同規模とすると、河内六寺の中では智識寺と並んで大きな寺となります。そして、北限とされる道路下の石組の井戸の中から、「大里寺」と墨書された8世紀代の土器の鍋が出土しました。これは大県廃寺が大里寺であることを裏付けるものです。ここに大里寺に付属する雑舎があったとすると、北限もこの辺りでよいでしょう。
「大里寺」と墨書された土器の鍋
また推定地から北に100mほどの場所で「井門家」と墨書きされた土器片が見つかりました。墨書きの意味は不明ですが、「井」は墨書土器で多く使われた文字のため、井戸の「井」ではなく門から入る邪気を祓うような魔除けの記号や、大里寺を支えた氏族名とする説があります。ほかに明治30年代に小さな仏像が掘り出されたようです。
「井門家」墨書土器
伽藍
『柏原市史』によれば、堅下小学校の南東、現在の天理教駐車場付近に主要伽藍が存在し、かなりの遺構が残っていたようです。ただ正式な発掘調査が行われていないため、詳細は不明です。東に塔、西に金堂を配した法起寺式の伽藍配置と想定されていますが、十分な根拠に基づくものではありません。周辺には礎石がいくつか残っており、その一部を史跡高井田横穴公園内に移動して展示しています。
法起寺式…金堂と塔が左右(東西)に並び、法隆寺西院の伽藍配置と似るが、法隆寺とは逆に金堂が西、塔が東に建つ形式を「法起寺式伽藍配置」と称している。
高井田横穴公園内の礎石
瓦
軒丸瓦では、新羅・高句麗系の素弁蓮華文・山田寺系の単弁蓮華文・羽曳野市の野中寺と同じ忍冬蓮華文・細弁蓮華文・複弁蓮華文軒丸瓦、均整唐草文軒平瓦、鬼瓦などが出土しています。その中でも素弁十一葉蓮華文軒丸瓦に、弁の中央に稜線をもつなど独自性がみられ、7世紀中頃から後半の創建瓦と考えられます。こうした様相は、同じ大県郡大里郷に所在する大県南廃寺(山下寺跡)に近い点もあるようです。
細単弁蓮華文軒丸瓦
忍冬蓮華文軒丸瓦
また大里寺は平安時代中頃に火災によって廃絶したと伝えられ、調査地には煤や木炭焼柱片などが堆積していました。当館収蔵の瓦には、2次的な熱を受けて赤く変色したものも含まれています。