三宅寺
平野廃寺
大里寺の次に参拝した三宅寺は、大県廃寺の北側約400m、柏原市平野2丁目の平野廃寺が候補地と考えられています。なお『柏原市史』では、奈良時代の瓦が出土し、礎石が存在したとして、この場所よりも約100m北側が三宅寺跡と推定しています。
平野廃寺の範囲は150m四方に設定されていますが、このような大規模な古代寺院を考えることは不可能です。この範囲内で、これまでに十数回の発掘調査を実施していますが、わずかに布目瓦などが出土するのみで、寺院の存在を窺わせるような量はなく、確実に奈良時代まで遡る資料もみられません。唯一採集されている単弁蓮華文軒丸瓦も平安時代のものです。また、「三宅」に関連するような地名もみられません。
この候補地には谷があり「過去に何度か鉄砲水の被害を受けた際に寺院跡も流失した」という考えもありますが、すべて流されたり、そのような危険な地に寺院を造営したとも思えません。
『続日本紀』の参拝順から、三宅寺は大里寺の北、河内六寺の最北端にあったと考えられますが、市内において大県廃寺より北では、これまでのところ、古代寺院の存在を示すような遺構・遺物は確認できていません。
法善寺廃寺
平野廃寺以外に、平野廃寺の西約700mにある法善寺廃寺を候補地とする説があります。その南西にある壷井寺に白鳳期と考えられる銅造菩薩立像が伝わっていることを根拠としています。しかし、この周辺でも奈良時代の瓦は出土しておらず、旧大和川の自然堤防上という立地の悪さも問題となっています。
教興寺跡と高麗寺跡
また、八尾市の教興寺跡や高麗寺跡(郡川廃寺)も三宅寺の候補地です。このあたりを高安郡三宅郷と考える説もあります。しかし、他の五寺と、あまりにも離れすぎていることが問題です。
河内六寺と教興寺・高麗寺跡の位置
教興寺跡
教興寺跡は八尾市教興寺に位置し、現在も教興寺という寺が存在します。
1991・92年に寺域南側の池で調査が実施され、重弁蓮華文・単弁蓮華文・素弁蓮華文・細弁蓮華文軒丸瓦などが出土しています。重弁蓮華文軒丸瓦は、太平寺廃寺や鳥坂寺跡などで出土する瓦で、大県郡・安宿郡に集中的に分布しています。単弁蓮華文軒丸瓦は、弁に子葉と稜線がみられ、山田寺式※の流れをひく西琳寺式と呼ばれる瓦で、これも大県廃寺や大県南廃寺などで出土しています。これらの瓦から、教興寺は7世紀後半ごろの創建と考えられます。
秦氏あるいは高安氏の氏寺とする説があります。
※山田寺式瓦… 山田寺から出土した瓦は「単弁八葉蓮華文の軒丸瓦と重弧文の軒平瓦」の組み合わせからなり、「山田寺式」と呼ばれている。これと同種の瓦が各地の古代寺院から出土するため、建築年代を推定する指標となっている。しかし、山田寺に先行し「百済大寺」跡と推定されている吉備池廃寺で使用されていることがわかっている。
高麗寺跡
高麗寺(こまでら)跡は郡川(こおりかわ)廃寺とも呼ばれ、教興寺跡の北約400m、八尾市郡川に所在します。これまで発掘調査が実施されておらず、詳細は不明ですが、『八尾市史』で礎石の存在や瓦の出土が報告され、「こうらいじ」の字名などから高麗寺跡とされています。
瓦は、外区に唐草文がめぐる重弁蓮華文軒丸瓦、教興寺跡と同じ西琳寺式の単弁蓮華文軒丸瓦、均整唐草文軒平瓦などが出土しており、教興寺にやや遅れて創建されたと考えられます。
教興寺と対になって、僧寺と尼寺の関係にあったとも考えられます。
神宮寺廃寺
八尾市神宮寺の神宮寺遺跡から河内国分尼寺跡出土品と同型式の複弁蓮華文軒丸瓦が出土しており、奈良時代の寺院が存在したと考えられています。この寺院が三宅寺だったのではないかとする説があります。この地が高安郡三宅郷にあたるという考えもありますが、神宮寺は大県郡に含まれると考えられ、三宅郷ではないでしょう。むしろ、この寺院が三宅寺ならば、大県郡に河内六寺すべてが存在したことになります。しかし、出土している瓦の量が少ないため、寺院が存在したのかどうかも今のところ確認できません。
このように、三宅寺の所在地は今後の課題です。これまで検討した遺跡の中から、三宅寺に関する資料が発見されるかもしれませんし、まったく別の場所から古代寺院跡が発見されるかもしれません。それまでは、三宅寺の地は不明としておいたほうがいいでしょう。