河内六寺の瓦
河内六寺の瓦
河内六寺に比定される古代寺院跡からは、多種多様な軒瓦が出土しています。
素弁蓮華文軒丸瓦 |
弁がふくらみ 外区素文の8葉 |
大県南廃寺、安堂廃寺、鳥坂寺跡 |
弁が薄く、中房の蓮子が3重にめぐる8葉 | 太平寺廃寺、大県南廃寺、安堂廃寺 | |
弁の中心に稜線が みられる11葉 |
大県廃寺、大県南廃寺 | |
弁の細い8葉 | 太平寺廃寺 | |
弁の大きい8葉のもの 弁中央が稜線状となる11葉のもの |
鳥坂寺跡 | |
重弁式の軒丸瓦 |
原山廃寺式 | 太平寺廃寺、安堂廃寺、鳥坂寺跡に多数出土 安宿郡にも分布している |
軒平瓦 | 大県南廃寺・鳥坂寺跡以外からほとんど出土しておらず、使用していなかった可能性が高い |
忍冬文…仏教系文様。忍冬はスイカズラ科の植物で、葉の一部が越冬するので、この名がある。飛鳥・奈良時代に流行した。
十分な根拠はありませんが、これらの瓦が各寺院の創建に伴う7世紀中ごろから後半のものと考えられます。これに続くのが、単弁蓮華文、忍冬蓮華文、外区素文複弁蓮華文軒丸瓦などでしょう。
奈良時代以降の瓦
複弁蓮華文軒丸瓦や均整唐草文軒平瓦が少量ですが出土しており、差し替え瓦として考えられます。中でも太平寺廃寺、鳥坂寺跡では難波宮跡出土瓦と同笵の軒丸瓦を使用し、太平寺廃寺からは重圏文(じゅうけんもん)軒丸瓦、重廓文(じゅうかくもん)軒平瓦も出土しています。中央との関係を示す瓦と考えられます。これらの瓦の様相をみていると、太平寺廃寺より南の三寺院と、大県廃寺、大県南廃寺の様相が若干異なるようです。瓦の製作や供給体制に差があったのかもしれません。
均整唐草文軒平瓦
叩き目や線刻のある瓦
出土した平瓦には、多種多様な叩き目がみられることも大きな特徴です。もっとも多様な叩き目がみられる鳥坂寺跡からは、「玉作阝飛鳥評」と線刻された平瓦も出土しています。
平瓦に線刻された「玉作阝飛鳥評」の文字
この平瓦は何らかの叩きを施した後に叩き目をすり消し、改めてスタンプ状に綾杉状の叩きを施すもので、大県郡だけでなく、安宿郡などの周辺寺院にも普遍的にみられるものです。この瓦に評の文字が見られることから、この種の平瓦の年代が、郡制のしかれた大宝令(701年)以前、すなわち7世紀代の瓦であることを示しています。
その右側にも数文字が刻まれており、「□□□五十戸(さと)」と読むことができます。「□□□」は竹内亮氏が「志母乃」と読む案を示されています。「志母乃五十戸(しものさと)」とすると、『和名類聚抄』にみえる「安宿郡資母郷」に相当し、現在の国分周辺のことと考えられます。なお、五十戸は「里(さと)」の古い標記です。
叩き目のある平瓦
平瓦の製作技法などから、スタンプ状の叩きに先行して、格子や平行線などの叩きを全面に施した平瓦が使用されたと考えられます。年代観も、軒瓦から推定される各寺院の創建年代「7世紀中ごろから後半にかけて」と矛盾しないようです。なお、このような複雑な叩き目は朝鮮半島でよく見られるものであり、渡来系の瓦工人がもたらした技法と考えられます。
瓦からみると各寺院は、7世紀中ごろから後半にかけてのごく短期間に、次々と創建されたと考えられます。しかも間隔は400~500mほどで、都以外でこれだけ寺院が密集する場所は極めて異例です。