高井田横穴群
高井田横穴群は、大和川の北側にあり、南へ張り出す尾根の斜面を中心に広がる横穴群です。これまでに162基の横穴が確認され、未調査部分にも多数存在することはまちがいなく、実際の数は200基を大幅に上回ります。
高井田横穴群の位置
横穴が掘り込まれた凝灰岩は、火山灰などが固まってできた岩盤なので、比較的軟らかく、横穴を造るには好条件です。高井田横穴群では、凝灰岩の露出箇所と 横穴の分布範囲がみごとに一致し、これらを造った人たちは、凝灰岩の性質をよく知っていたのでしょう。この凝灰岩は、以前は二上山のものとされていましたが、最近では紀伊半島北部に広がる室生火山岩の一部と考えられるようになっています。
この高井田横穴群は、1922年(1990年追加)に国の史跡に指定され、史跡高井田横穴公園として整備されています。
構造
玄室は、平均9平方メートル前後、六畳くらいの広さです。平面形は前後に長い長方形が多く見られますが、正方形や横長の長方形のものもあります。壁はまっすぐ立ち上がり、 天井はドーム状になっています。天井中央の高さは170~180cmくらいの横穴が多く、大人が中で十分立つことができます。
2-13号横穴・玄室
そして半数以上の横穴が、壁と天井の境目に幅10cm前後に切り込まれた段をもっています(切り込み段)。この段が何を表現したものか、よくわかりません。家の軒先を表現したという説が有力ですが、 九州の横穴式石室に見られる段を模倣したものではないかとも考えられています。
切り込み段について Aタイプ(平面方形、各壁に切り込み段、6世紀後葉) と変遷し、家族墓から個人墓への変化がみられるとしました。しかしこうした理解については、近年の調査や検討などを通して問題点が指摘されています。 玄室の形態や構造は、平面形が横長方形もしくは方形で天井・側壁境の切り込み段を造るものが古く、平面形が縦長方形で切り込み段 を省略するのが新しい傾向であるのはその通りです。しかし、Cタイプとされた玄室平面形が隅丸方形で小規模な横穴は、ほとんどが未完成(埋葬は行われている)と考えられるので、これを一つのタイプと考えることはできません。 |
また、床に排水溝のある横穴、玄室の入口部分(玄門)に丁寧な加工を施した横穴もあります。
羨道は、玄室に比べると幅が狭く、天井も低くなっています。玄室への通路であるとともに、横穴の入口を閉じる部分でもあります。
支群(グループ)
高井田横穴群は、地形や横穴の分布状況により、大きく4つの支群(グループ)に分け、東から1支群1号横穴(1-1号横穴)…と、このように支群名と号名で名称を決めています。現在確認されている総数は、162基です。
高井田横穴群周辺
第1支群<もっとも東>
大阪府立修徳学院の敷地内にあり、史跡の範囲外です。これまでに25基の横穴が確認されており、比較的規模の大きい横穴が多くみられます。学校敷地内のため、見学はできません。
第2支群<公園東側>
史跡公園内の東側の丘陵にあるのが第2支群です。南へ張り出す尾根の東と南斜面に多数の横穴が造られています。確認されている54基の横穴は、2階建てや3階建てのように、左右だけでなく、上下にも造られている様子を見学することができます。玄室の平面形が方形や横長の長方形が多いという特徴があります。
第3・4支群<公園西側>
史跡公園内の西側の丘陵には、第3支群と第4支群があります。南東部のグループを第3支群、北西部のグループを第4支群と呼んでいますが、その境界ははっきりしません。第1・2支群に比べると、規模の小さい横穴が多いのが特徴です。第3支群では32基、第4支群では51基の横穴が確認されています。
さらに小さいグループ 実際に20年前後の間隔で造られたと考えられる横穴も多いのですが、それが本当に家族の墓と考えていいのか。さらに大きな支群はどのようなまとまりを示すものなのか。横穴を造った人々の社会を復元するためには、まだまだ課題が残されています。 |
過去の調査・研究
1910年代~ |
高井田横穴群を紹介したもっとも古い記録は、喜田貞吉氏の「横穴に安置せられたる石棺と陶棺」でしょう。河内の道明寺山(高井田から東にかけての山の通称)に30~40基の横穴があり、石棺を造り付けてあるものが4基あると報告されています。
【喜田貞吉「古墳墓雑記三則」『歴史地理』第19巻4号 1912】
同じころ梅原末治氏が分布調査を行い、55基の横穴を確認しています。その中には、現在確認することができない横穴も多数あり、貴重な記録です。
梅原報告17号横穴(現在所在不明)
また、出土土器から、横穴が通常の横穴式石室と同時期であることもすでに報告されています。
【梅原末治「河内高井田に於ける横穴群について」『人類学雑誌』第31巻12号 1917】
1917年、高井田横穴群北側(現在の歴史資料館付近)に、墓地が築かれることになり、そのために道路が開かれました。その際に、船に乗る人物の線刻壁画 (3-5号横穴)などが発見され、注目を集めることとなり、高橋健自氏が、詳細な報告をしています。この道路とは、現在の史跡公園正面入り口から歴史資料館へ至る道のことです。
【高橋健自「河内高井田なる藤田家墓地構内の横穴」『考古学雑誌』第9巻9号 1919】
このように、明治末から大正にかけて、著名な研究者が次々に高井田横穴群を訪れ、分布調査や観察に基づく報告をしています。いずれも、かつての高井田横穴群を知るための貴重な資料です。このような調査結果、そして線刻壁画をもつ横穴の発見などによって、1922年に3-5号横穴周辺の約1,400平方メートルが、国の史跡に指定されました。
1970年代~ |
その後、1970年代に横穴周辺の宅地開発が計画され、財団法人大阪文化財センターが分布調査と一部の試掘調査をしています。高井田横穴群における最初の発掘調査です。分布調査では、95基の横穴が確認されています。
【大阪文化財センター『大阪府柏原市高井田所在遺跡試掘調査報告書』1974】
1974~75年には、大阪府教育委員会が平尾山古墳群の分布調査を実施し、その一環として高井田横穴群の分布調査も実施されました。この調査では、 146基の横穴と1基の円墳が報告されています。この際に、全体が4つの支群に分けられ、第1支群の存在が初めて明らかにされました。この分布調査で報告された1基の円墳が、高井田山古墳です。
【大阪府教育委員会『平尾山古墳群分布調査概要』1975】
1977年、 和光大学の北原一也氏を中心に、線刻壁画の詳細な調査が実施されました。この調査によって、25基の横穴に線刻壁画がみられることが紹介され、学会の注目をあびることになりました。壁画の意味も多角的に考察された研究で、この前後には船に乗る人物の線刻壁画を中心に、多数の研究者が線刻壁画の意味について検討しています。
【和光大学古墳壁画研究会『高井田横穴群線刻画』1978】
1980年代~ |
1985年から開発に伴う発掘調査が実施される一方で、周辺の区画整理事業の際には横穴の分布範囲の大半を保存するべく、保存区域を拡大設定しています。
【柏原市教育委員会『高井田横穴群』 I 1986、II 1987、III 1991、IV 1992】
1990年代~現代 |
保存区域の35,525平方メートル(既指定地含む)は、1990(平成2)年に国史跡に追加指定されました。また史跡指定に先立って、柏原市では保存された高井田横穴群を史跡公園として整備する計画を立てました。 そして平成元~3年度にふるさとづくり事業として史跡整備を実施、隣接地には市立歴史資料館も建設され、公園は平成4年5月、資料館は同年の11月にオープンしました。
※こちらも併せてご覧ください。<史跡 高井田横穴公園 ご利用案内>
線刻壁画
高井田横穴群では、これまでに27基の横穴で線刻壁画が確認されています。最初にここで線刻壁画が発見されたのは、大正6年(1917)のことで、現在にいたるまで、多数の研究者によって紹介されてきました。線刻壁画が死者のあの世への旅立ち、墓室や死後の世界を守るものを表現しているとすれば、当時の人々が死後の世界を信じていたことがうかがえます。詳しくはこちら
埋葬と棺
横穴の埋葬方法
ひとつの横穴には、普通3体前後の人が埋葬され、主に釘で留めた組合式の木棺が使用されました。木棺の木材は腐って残っていませんが、棺材を打ちつけた釘が出土することからその使用がわかります。
出土した釘からわかること
盗掘の被害が少ない場合には、釘の出土位置から木棺の位置を復元できることがあります。木材が腐ると釘がその付近に落ちるので、この釘の出土位置を結んでいくと、木棺の大きさや位置が推定できます。
また、釘に木目跡が残っている場合は、木目の変化する位置よって、その木棺に使用された板の厚さや木棺の組み合わせ方がわかる場合もあります。多くは、底に1枚、その上に長い側板を立てて狭い側板を挟む構造のようです。それに蓋を被せると、6枚の板で木棺が造られることになります。
釘が出てこない
木棺や造付石棺以外の棺もあったようです。2-59号横穴からは、多数の土器の出土に対し、釘がまったく出土していません。釘を使わない木棺、布にくるむ、板に載せるだけ、さらには遺体をそのまま埋葬することもあったのかもしれません。造付石棺にはどんな人が埋葬されたのか、釘を使用しない棺とはどんなものだったのか。埋葬方法にも、まだまだ謎が残っているのです。
棺の配置
4-1号横穴は、釘の出土位置から3つの木棺が安置されていたと復元できます。被葬者それぞれに伴っていた一対の耳環(ピアス)から、頭の位置も特定できました。
高井田横穴群の被葬者は、4-1号横穴のように横穴が北方向に開口する場合でも、基本的に頭は北に向けて埋葬されています。このほかに埋葬位置が復元できる例では、玄室の奥壁に沿って横方向に1つ、その手前に縦方向に2つ、つまりカタカナの「コ」の字のような棺配置が多かったようです。これは、 安福寺・玉手山東横穴群でも同様です。
4-1号横穴の棺配置
同時期に高井田横穴群の北東に分布する平尾山古墳群では、横穴式石室内に縦方向に2つの棺を並べて埋葬する例が多く、両者の埋葬方法は対照的です。
4-39号横穴・造付石棺
2つの棺が縦にならび、その間に間仕切りがあります。
造付(つくりつけ)石棺
普通の横穴式石室に伴う石棺は、石室完成後に運び込まれたとされています。しかし 造付石棺とは、横穴を掘削する際に石棺の形に掘り残し、その中を刳り抜いたものです。つまり、床や壁と一体となっているので造付石棺と呼ばれます。中には横穴の完成後、さらに壁を掘り込んで造付石棺を造っているものもあります。高井田横穴群では、これまでに17基の横穴から22基の造付石棺が確認されています。
造付石棺は、玄室の左側壁※と奥壁に沿って設けられたものが多く、右側壁※には4基のみです。
※玄室壁の左右…玄室から羨道を見たときの左右
4-42号横穴は、「コ」の字形に3つの造付石棺があり、玄室中央も石棺とみれば、4つの造付石棺となります。ただし、通常の造付石棺とは異なり、石棺部分が浅く、九州などで棺床と呼ばれるものに近い状態です。
4-42号横穴・造付石棺
通常の造付石棺は、近畿地方でよく見られる家形石棺と同様に大きく、おそらく、家形石棺を意識したものと考えられます。しかし、その蓋についてはよくわかりません。
造付石棺の蓋
3-30号横穴の造付石棺では、二上山の凝灰岩で造られた2枚の蓋が使用されていました。非常に薄いもので、組み合わせ式石棺の蓋によくみられるような構造です。
3-30号横穴・造付石棺
また、4-27号横穴では、造付石棺の上に扁平な大きめの自然石が載っていました。蓋が確認されたのは、この2例のみで、当初から蓋が無かったか、もしくは木製の蓋を使用していたのではないかと考えられます。また造付石棺は、埋葬のための施設ではなく追葬の際に、先に埋葬されていた被葬者の骨などを片付けるための施設ではないかという考えもあります。
主な副葬品
高井田横穴群では、ほとんどの横穴が盗掘を受け、副葬品の出土は多くありません。そんな中でもとりわけ武器や馬具の副葬品が少なく、ここに埋葬された人たちは、武力で活躍するような集団ではなかったことを示しています。
【耳環】
直径2cm前後の銅の輪に、金・銀メッキをしたものです。4-1号横穴からは3対6点が出土しており、3体の人物に伴うものとわかります。
4-1号横穴・耳環とガラス玉
【玉】
琥珀製の玉、碧玉という緑色の石で造られた管玉、ガラス玉、粘土を焼いて造られた土玉があり、いずれも首飾りなどに使われたものでしょう。
4-43号横穴・琥珀製棗玉と銀環
4-42号横穴・金環・琥珀製丸玉・管玉・土玉
【紡錘車】
紡錘車は滑石という軟らかい石で造られ、本来は糸をつむぐためのはずみとなる錘のことですが、そのように使用されたものではなく、何かの飾りかもしれません。
4-29号横穴・紡錘車
【鉄製の刀・剣・矛1本ずつ、刀子、鎌、斧など】
どれも小さな破片で見つかりました。
【馬具】
杏葉(ぎょうよう)、壷鐙(つぼあぶみ)、革帯を留める辻(つじ)金具が1点ずつ出土しているのみです。
2-11号横穴・馬具(辻金具)
【埴輪】
いくつかの横穴から出土しており、墓道のへりなどに並べられていた可能性があります。
【土器】
出土した8割が須恵器で、その中でも蓋坏が半数を占め、それに次いで長い脚のついた高坏、壷などが多数出土しています。その他には、貯蔵のための甕(かめ)、円形の水筒のような提瓶(さげべ)、液体を注ぐ穴のあいたハソウ、壷をのせるための器台などがあります。
高井田横穴群の造営年代が6世紀後半というのも、主にこの須恵器によって判断しています。
2-59号横穴・出土土器
4-42号横穴・出土土器
【鈴付高坏】
4-42号横穴から出土したもので、高坏の脚上部がふくらみ、その中に石が入っているようで、振るとコロコロといい音が鳴ります。【ここをクリックすると音色が再生されます】
4-42号横穴・鈴付高坏
【ミニチュア土器】
2-58号横穴と3-2号横穴両方から、ミニチュアの竈(かまど)と甕がセットで出土しています。
2-58号横穴・ミニチュア炊飯具
ミニチュア土器 竃(かまど)や甕(かめ)など煮たきに使われる土器のミニチュア品はミニチュア炊飯具として注目されています。その理由は、渡来系氏族と深い関係があると考えられているためです。柏原市の平尾山古墳群や河南町・太子町の一須賀古墳群からはミニチュア炊飯具が多数出土しており、被葬者集団を渡来系氏族と推定する根拠の一つとなっています。 それでは、高井田横穴群を造った集団も渡来系氏族だったのでしょうか。 土器が出土した37基の横穴の中で、ミニチュア炊飯具を出土した横穴は2基のみです。また、それ以外に渡来系氏族と結びつくような副葬品も見られません。渡来系氏族と関わりがあったにせよ、これだけでは被葬者集団が渡来系氏族だったとは言えないでしょう。 |
高井田横穴群の被葬者
従来、埋葬された人々は渡来系氏族だという説が多くありました。その理由として、近畿地方ではあまり見られない珍しい埋葬施設であること、船に乗る人物の線刻壁画の服装が大陸的であること、そしてミニチュア炊飯具が出土していること、などがあげられます。
しかし、朝鮮半島で発見されている数少ない横穴は高井田横穴群のように立派ではなく粗雑で、むしろ日本の横穴が朝鮮半島に伝えられたのではないかと考えられています。高井田の横穴は九州から伝わったとみられますが、河内にいた渡来系氏族が埋葬形態だけ九州のものを採用したのでしょうか。それとも九州から渡来系氏族が、横穴という埋葬形態とともに河内に移り住んだのでしょうか。
線刻壁画の人物の服装は確かに大陸的ですが、特別なものではなく、人物埴輪などによく見られる服装で、馬に乗るのに便利な当時の上層階級の人々の服装です。
ミニチュア炊飯具は渡来系氏族との関係を示すものですが、高井田横穴群からは先述のとおり、これまでに2基の横穴から出土したのみです。これをもって、被葬者集団が渡来系氏族だったと言えるでしょうか。
高井田横穴群周辺には、同時期の集落跡はみつかっていません。おそらく、かなり離れたところに暮らす人々が造ったものだと考えられます。棺の配置は「コ」の字形となり、これは九州の肥後周辺でよく見られる棺配置です。また、横穴の丁寧な造り方は、石材の加工に親しんでいた人々が関わっていることを想像させます。
これらの事実を総合すると、九州から移住してきた石工集団が被葬者に含まれている可能性が考えられます。そして、九州から移住してきた石工集団というと、石棺を造る人々を思い描くことができます。石棺は高井田横穴群が造営される少し前に、九州の阿蘇溶結凝灰岩から二上山の凝灰岩で造られるようになり、そこに九州からの石工集団の移住が想定されています。高井田横穴群の被葬者に、これらの石工集団が含まれていたのではないでしょうか。
また、安福寺横穴群は陶棺の出土から土師氏との関係が推定されます。土師氏は古墳造りに関わる氏族であり、これら柏原の横穴群は、土師氏のもとに組織された古墳造りなどに関わる技術者集団が営んだものではないでしょうか。その中に渡来系の人々も含まれていたかもしれません。
閉塞(へいそく)
横穴の入口を閉じることを閉塞といいます。
高井田横穴群の場合、閉塞方法は2つあります。ひとつは羨道部分に自然の石を積み上げる方法、もうひとつは、羨道の入口(羨門)に木製の板を立てかける方法です。板は残っていませんが、羨門の床に板を立てるための細い溝が掘られており、閉塞した自然石が見つからない横穴があることによって推定されます。全体でも、板によって閉塞したものが多かったと考えられます。2人目、3人目と追葬する際には、この板をはずして死者を納め、再び板で閉塞したのでしょう。