安福寺横穴群
玉手山は、大和川と石川の合流点近くを北限とする、標高100m前後の小丘陵です。安福寺横穴群は玉手山丘陵の西斜面、玉手山東横穴群は東斜面にあり、ともに玉手山凝灰岩層に営まれています。
安福寺横穴群と玉手山東横穴群
柏原市玉手町に安福寺(あんぷくじ)という寺院があります。江戸時代に尾張徳川家と深い関係のあった寺院ですが、その参道(A地点)の北斜面に17基(北群)、南斜面に18基(南群)、およそ70m北西に離れた地点(B地点)の小谷に5基(西群)の、合計40基の横穴が確認され、大部分が大阪府の史跡になっています。
安福寺横穴群位置図
安福寺横穴群(北群)
玄室の変遷
安福寺横穴群の年代、変遷およびその背景については、昭和47年(1972年)の実測調査で詳しく論じられました。
当時知られていた北群、南群の横穴を2~5基ずつの小群に分け、玄室の平面形や天井・側壁の境に設けられた切り込み段を基準にして、
Aタイプ(平面方形、各壁に切り込み段、6世紀後葉)
⇒Bタイプ(平面縦長方形、切り込み段の一部省略、6世紀末葉)
⇒Cタイプ(平面隅丸方形、小規模、切り込み段無し、7世紀初葉)
と変遷し、家族墓から個人墓への変化がみられるとしました。しかしこうした理解については、近年の調査や検討などを通して問題点が指摘されています。
玄室の形態や構造は、平面形が横長方形もしくは方形で天井・側壁境の切り込み段を造るものが古く、平面形が縦長方形で切り込み段 を省略するのが新しい傾向であるのはその通りです。しかし、Cタイプとされた玄室平面形が隅丸方形で小規模な横穴は、ほとんどが未完成(埋葬は行われている)と考えられるので、これを一つのタイプと考えることはできません。また、玄室床面の施設として、敷石をもつものはなく、排水溝をもつものは1基だけです。
※切り込み段…壁と天井の境に幅10cm程度に切り込まれた段。何を表現したものかはよくわかっておらず、家の軒先を表現したという説や九州の横穴式石室を模倣したとの説もある。
時期
出土している数少ない土器から判断すると、「最も古い横穴」は南群17号横穴で、平面形は横長方形、各壁に切り込み段がみられ、6世紀中葉に近い時期が考えられます。また「時期が下るもの」では西群5号横穴があり、平面形は隅丸縦長方形で小規模、切り込み段無しという形態で、6世紀末葉と考えられます。このように安福寺横穴群の造墓活動は、6世紀中~後葉に始まり、6世紀末葉までは確実に続けられました。
埋葬施設と陶棺
埋葬施設としては、造付(つくりつけ)石棺が北群、南群にもありますが、棺釘の出土により、多くは板材を組み合わせた木棺と推測されており、床面には石塊を配置した棺台も認められます。
またこの横穴の最も特徴的な点として、陶棺(とうかん)の利用があります。陶棺とは、土器と同じように粘土で造った棺を火にかけて堅く焼いたものです。安福寺横穴出土の陶棺は、亀の甲羅のような模様をもっているため、亀甲型陶棺と呼ばれ、これまでに4基の陶棺が出土しています。
陶棺の出土から、安福寺横穴群は石川の対岸を本拠とした土師氏に関係があるのではないかと考えられています。土師氏は埴輪や土師器の生産に関わり、陶棺も土師氏との関わりが指摘されているからです。その陶棺も高井田横穴群では第2支群4号墓でしか認められず、同じ横穴という墓制を採用しながら、その被葬者や造墓集団の違いも注目されるところです。
線刻壁画
北群10号横穴には、羨道の壁面に有名な線刻壁画があります。馬に乗る人物、鳥毛のような飾りを頭に付けてズボンを履く人物、被冠・帯刀し、長袖・長裾の衣服をまとった人物が描かれています。もっとも有名なものが左端の騎馬人物です。その馬は、脚の筋肉の張りまで表現されたリアルなものです。しかし、これらは、後世のものではないかという意見が強くなっています。
安福寺横穴群北群10号横穴
騎馬人物の線刻壁画
安福寺横穴群北群10号横穴の線刻壁画図
6世紀の壁画ではない? 3体の人物はいずれも斜めを向いて、全体的に立体感のある壁画が描かれています。しかし、これまで知られている古墳時代の壁画は、いずれも正面か側面を向いており、斜めを向いて立体感のある人物は、高松塚古墳まで描かれなかったと考えられています。もし、安福寺横穴群の壁画が6世紀半のものなら、高松塚古墳を100年以上も遡って立体感のある壁画が描かれていたことになります。刻まれた線も浅く、1400年以上も前の壁画と考えることは難しいのではないでしょうか。 安福寺横穴群の騎馬人物像によく似た馬が高井田横穴群2-3号横穴にもありますが、意図的に剥がされており、脚の一部が残るのみで、詳しいことはわかりません。 |
西群の横穴
西群は5基の横穴で構成され、1本の墓道で結ばれた一家族のものと考えられます。6世紀後葉~末葉の間に、谷の開口部から奥部、奥部から開口部へと順次構築されました。数十年という短期間に5基が掘削された西群の状況は、世代交代だけでなく、例えば兄弟、姉妹等の死が造墓の契機になった可能性を示しています。
安福寺横穴群 西群地形図
史跡公園整備事業
安福寺横穴群は古くから知られており、昭和48年3月30日に史跡第35号として大阪府の史跡に指定されました。西群は昭和57年度のマンション建設に伴う発掘調査によって,新たに5基の横穴が発見された地域にあたります。新発見の横穴は調査依頼者のご好意によって保存され、その後、保存地の西側(旧国分小学校玉手分校跡地・市有地)も含め、一括して昭和59年5月1日に大阪府史跡の追加指定を受けました。
人々の関心をより高め、史跡を身近に感じられるよう、現在は周辺住民や会館利用者のくつろぎのスペースとして、史跡公園に整備されています。
※ただし、普段は施錠されていますので、見学希望者は事前に文化財課まで連絡してください。
整備完了後の様子
4・5号横穴