【コラム】聖徳太子と柏原 (10)聖徳太子伝説と柏原

2022年6月7日

 聖徳太子は、その存在自体を否定する説もあるなど実態がよくわからない人物です。しかし、海外への窓口であった難波を重視し、飛鳥から難波へのルートを計画して龍田道や渋河道を整備したのは聖徳太子だったと考えられます(コラム(2)「聖徳太子と龍田道」)。おそらく太子自身もこの道を歩き、大和川を往来する舟にも揺られたことがあったと思います。
 聖徳太子は、丁未の変(587)で物部氏と戦うなかで、難波や河内の地理的な重要性を認識したのかもしれません。それが四天王寺の建立や物部氏の旧領であった渋川付近を上宮王家や四天王寺の所領とすることにつながったと考えられます。そして、それが契機となって斑鳩へ居を移し、渋河道・龍田道ルートの整備につながったのではないでしょうか。
 『万葉集』に龍田道を行く太子の歌が記され、亀の瀬に太子の伝説が伝えられ、河内六寺にも太子にまつわる話が伝えられるなど、柏原には数々の太子伝説が残されています。柏原に限らず、四天王寺や渋川は太子ゆかりの地として太子伝説が残されています。難波・河内だけでなく、大和川・龍田道に沿った奈良県王寺町・三郷町にも太子にまつわる伝説があります。片岡の飢人伝説や太子が関わったかもしれない寺院などから、太子が大和川沿いのルートを重視していたことがわかります。さらに柏原には聖徳太子の棺ではないかと考えられる夾紵棺が残されています。
 これらを伝説として切り捨てるのではなく、そのような伝説が生み出された背景に迫ることが重要だと考えます。そこには、必ず歴史的な事実が隠されていると思います。春季企画展では、聖徳太子没後1,400年にちなんで、聖徳太子にまつわる伝説と、そこに隠された歴史的真実をさぐってみました。キーワードは道と寺です。柏原市と隣接する王寺町・三郷町との共催企画です。みなさんもじっくり味わってみてください。

(安村)

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