【コラム】聖徳太子と柏原 (2)聖徳太子と龍田道
聖徳太子は推古9年(601)に斑鳩宮の造営に着手し、推古13年(605)に飛鳥から斑鳩に移っています。斑鳩移転の理由については、蘇我氏と対立していたため、政治から身を引いて仏教に専念するため、などの説がありますが、おそらく外交のために西へのルートを確保することが大きな目的だったと考えられます。
推古8年(600)、15年(607)に遣隋使が派遣されています。遣隋使派遣を主導したのも聖徳太子と考えられます。そして隋の制度や文化を取り入れて、国内の整備を進めようとしていました。そのころ中国や朝鮮半島への玄関口となっていたのは、大川のほとりにあったと考えられる難波津です。この難波津から飛鳥へのルートを整備し、自ら掌握するために斑鳩へ進出したと考えられるのです。
当初は大和川の水運を重視していたと考えられます。推古16年(608)に来朝した隋からの使いである裴世清は、大和川を舟で遡って飛鳥へ至ったと考えられます。しかし、遣隋使から隋では幅の広い道が整備されていると聞いた太子が、道の整備に乗り出したようです。それが『日本書紀』推古21年(613)にみえる「難波より京に至る大道を置く」です。この大道とは、難波津から上町台地上を南下して四天王寺付近から大和川沿いに渋河道をたどり、大和川に沿った龍田道で河内と大和の国境を越えて斑鳩に至るルートだったと考えられます。斑鳩から飛鳥へは、斑鳩宮造営に伴って太子道(筋違道)がすでに整備されていたはずです。
このルートは金剛・生駒山地の峠越えの道のなかで最も高低差が小さく、輿や馬での峠越えも問題ありませんでした。ルート沿いには、四天王寺、渋川廃寺、船橋廃寺、衣縫廃寺、平隆寺、斑鳩寺(法隆寺)、中宮寺などの寺院が次々と建立されました。海外からの使者は数多くの寺院が建ち並ぶ光景に驚いたことでしょう。
渋川廃寺周辺は丁未の変(587)で敗れた物部氏の旧領で、その後四天王寺領、法隆寺領になっています。四天王寺も法隆寺も聖徳太子ゆかりの寺です。四天王寺、渋川廃寺、斑鳩を通るこのルートを計画し、整備したのは聖徳太子以外に考えられません。聖徳太子も龍田道をなんども往来していたのではないでしょうか。
(安村)
推古21年設置の大道