船橋廃寺
船橋遺跡は柏原市と藤井寺市にまたがって所在し、大和川と石川が合流する地点付近の河床および西側に広がります。奈良盆地から河内平野に流れる大和川は本来、石川との合流地点から北流していましたが、しばしば氾濫し、古くは8世紀に起きた河内平野への水害に関する記録が『続日本紀』に残っています。この水害対策として、江戸時代の1704年に付け替え工事が行われ、石川との合流地点から西流する現在の流れとなりました。船橋遺跡周辺は川底を掘らずに両岸の堤防を築く方法で付け替え工事が行われたため、大きな破壊を免れたものの、遺跡は大和川の河床に沈むことになりました。
船橋遺跡の範囲
現在の船橋遺跡
やがて昭和20年代後半頃から、膨大な量の遺物と特異な遺構群が河流の削平によって露出するようになりました。これにより旧石器時代から中近世までの多数の遺物が採集されています。柏原市教育委員会へは、多数の土器や貴重な縄文絵画土器(市指定文化財)、「30数年前に拾得した」という船橋廃寺の礎石などが寄贈されています。
寄贈された船橋廃寺の礎石(写真中央、史跡高井田横穴公園の礎石広場)
東側の亀の瀬渓谷を経て、奈良盆地と河内平野をつなぐ重要地点に立地する船橋遺跡は交通の要衝として繁栄したのでしょう。遺跡の評価をめぐって、研究者間でも多岐に渡る諸説が展開されるようになりました。しかし「船橋廃寺」という呼称があるものの、現在も定説はなく、研究史がまとめられたものもわずかしかありません。
船橋遺跡をめぐって
1948(昭和23)年 |
山本博氏によって船橋遺跡が発見。1951年には同氏によって「遺跡に多数の窯跡や、寺院礎石と思われる巨石を20箇ほど発見した」と調査報告され、ここから「窯址説」「船橋廃寺説」が挙がった。1952年、窯址の実態解明に向けた調査が行われた。
1954(昭和29)年 |
「河内橋」の上流で堤防が設けられると、下流側にあたる遺跡中心部の浸食が進み、遺物や礎石などが露出するように。
1956(昭和31)年~1958(昭和33)年 |
大和川河床に露出する礎石(昭和30年代)
大和川の浸食による遺物の露出に対処するため、大阪府教育委員会は発掘調査を実施。明確な寺院遺構は流され確認されず。しかし、塼を2列に並べて造った幅30cm程の溝状遺構(雨落か)が長さ3mにわたって発見され、一辺13mの溝を方形にめぐらした建物の地業とおぼしき遺構や掘立柱建物4棟、100m以上も連なる2列の柱穴列(柵跡)などが確認された。礎石を使用した遺構が作られる以前に同じ場所に、柵をめぐらした内部に掘立柱の建物が多数あったと考えられている。
1957(昭和32)年 |
山本博氏による窯址説がさらに展開されるが、日本考古学協会総会において否定される。この一連の論争が、翌年に『船橋遺跡論争』と新聞に書き立てられる騒ぎに。
1973(昭和48)年 |
『柏原市史』が発行され、その中で船橋廃寺は高句麗の僧・慧灌(えがん)が創建した井上寺であるという「井上寺説」が発表された。
1975(昭和50)年 |
『柏原市史・史料編』で、河内国鋳銭司(ちゅうせんし)が存在したとする「鋳銭司説」、豪族玉井氏の氏寺として建てられたという「玉井寺説」が発表された。
1977(昭和52)年 |
船橋遺跡を河内国府(後期国府)とし、その国府域に船橋廃寺が存在したとする「国府跡説(後期国府論)」が挙がった。前期国府は藤井寺市のはさみ山遺跡と想定された。
※はさみ山遺跡…藤井寺市に所在する旧石器時代から近世までの複合遺跡。現在わかっているなかで日本最古の住居跡が見つかったことで全国的に知られ、そこでは後期旧石器時代の住居の構造が明らかになった。
1982(昭和57)年 |
船橋廃寺を井上寺とし、船橋遺跡を餌香市(えがのいち)とする「餌香市説」が登場。
1984(昭和59)年 |
船橋遺跡を河内国府(前期国府)とし、従来の船橋廃寺を否定、その遺構を政庁的建物とする「国府説(前期国府論)」が登場。後期は国府地区(藤井寺市)や大井地区へ遷国府されたと考えられた。
1993(平成5)年 |
船橋遺跡の調査
古墳時代の井戸、竪穴住居、溝が見つかり、これらは集落跡とされている。井戸から見つかった土器は甕が多く、他の地域から搬入されたものが多数を占めている。飛鳥・奈良時代の遺構として、船橋廃寺が存在したとされる位置から西へ60~80mあたりに南北にのびる溝が見つかる。溝からは7世紀前葉の遺物も出土しており、船橋廃寺の創建に近い時期の遺構と考えられる。寺域を区画する溝の可能性もあり、溝の東側には柵か板塀が、西側にはかなり規模の大きい掘立柱建物も見つかっている。
2002・2003(平成14・15)年 |
大和川改修(高規格堤防)事業に伴う大阪府文化財センターの発掘調査で、7世紀中頃のガラス小玉製作工房が発見された。現在のところガラスの原料となる石英や長石が見つかっていないため、ガラスそのものではなく、製品づくりが中心だったと考えられる。
諸説の展開
窯址説
「多数の窯址、煙道か焚き口のようなもの」の発見による窯址説に対して、その実態を解明しようと発掘調査が行われました。結果、説を裏付けるような資料は見つからず、日本考古学協会は「掘穴は、窯とすべきでない」との否定的な見解を発表しました。またそこから「窯の壁や底に焼痕があり、煙道も残存している」と反論もあり、これらは「船橋遺跡論争」と新聞上に書き立てられる騒ぎになりました。
窯址とされる掘穴は「大和川改修工事の際に堤防用の土砂をとるためのものだった」という意見もあり、さらに地質調査で「焼けた形跡は認められず、単に鉄分が沈着した」と判明しています。煙道とされた溝も、改修工事の際に跡付けられたようです。有力な手がかりのないまま、現在この説は否定されています。
廃寺説
調査の際に、遺跡の中央に円形柱座が造り出された石、枘穴を持った礎石や土壇、塼列などが確認され、飛鳥寺や豊浦寺と同笵と思われる瓦が出土しています。これらにより寺院跡と考えられていますが、遺構等は十分に確認されていません。他にも円面硯とよばれる大きな硯や土馬などが出土しています。
礎石の配置から四天王寺式伽藍配置をとり、瓦からは創建が7世紀初頭、消滅が8世紀中頃、前後約130年間存在したと考えられます。寺域は明瞭ではありませんが、20数間四方にその痕跡があり、内に土壇を持つ建物があったと推定されています。
船橋遺跡からは多種多様な瓦類が採集され、軒丸瓦は古瓦研究において重要な位置をしめています。均等な八弁の割り付けをもち、やや肉厚な花弁の先端が肥厚して稜をなす単弁(素弁)軒丸瓦は、7世紀前半の「船橋廃寺式」軒丸瓦と型式設定されています。8世紀以降には、平城宮式や平安宮式の軒瓦が採用されている点から、寺院とすれば「官寺」としての性格が考えられます。ただし、多種の瓦が混在しているのは船橋遺跡が瓦の集積場だったからという考え方もできます。
時期 | 軒丸瓦型式名 |
I期(6世紀末~7世紀前半) | ・飛鳥寺I型式軒丸瓦 ・豊浦寺式軒丸瓦 ・船橋廃寺式軒丸瓦(周縁無し) ・船橋廃寺式軒丸瓦(周縁有り) ※素弁蓮華文で、7世紀前半(飛鳥時代)に位置づけられる。 外区を持つものと持たないものの2種類がある。 ・船橋廃寺式亜式軒丸瓦 ・衣縫廃寺式軒丸瓦(獣面文) |
II期(7世紀前半~7世紀中頃) | ・西琳寺式Aa型式軒丸瓦(八葉) ・高井田廃寺III型式軒丸瓦 ・九頭神廃寺式軒丸瓦 ・ヘラ描き重孤文軒平瓦 |
III期(7世紀中頃~7世紀後半) | ・西琳寺式B型式軒丸瓦(七葉) ・西琳寺式亜式太平寺廃寺式軒丸瓦(七葉) ・紀寺式軒丸瓦 ・川原式亜式軒丸瓦 ・重弧文軒平瓦 ・善正寺式A型式軒丸瓦 ・野中寺式軒丸瓦 |
IV期(7世紀後半~8世紀初頭) | ・西琳寺式亜式船橋廃寺式軒丸瓦 ・S字偏向唐草文軒平瓦 ・藤原宮式軒丸瓦 |
VI期(8世紀初頭~8世紀前半 | ・難波宮I型式軒丸瓦(6303) ・難波宮I型式軒平瓦(6604) ・難波宮II型式亜式軒丸瓦 ・難波宮II型式亜式軒平瓦(重圏文) |
VII期(8世紀中頃から8世紀後半) | ・河内国分寺式軒丸瓦(重廓文) ・河内国分寺式軒平瓦 ・平城宮6282B型式軒丸瓦 ・平城宮6663C型式軒平瓦 |
IX期(8世紀末~) | ・平安宮式(西寺)軒丸瓦 |
平瓦 | ・平行、正格子、斜格子、縄目 |
船橋廃寺出土瓦(藤井寺市教育委員会1987「藤井寺市及びその周辺の古代寺院(下)」をもとに作成)
船橋廃寺式軒丸瓦(同縁なし)
鋳銭司(ちゅうせんし)説
船橋遺跡からは和同開珎をはじめとした皇朝十二銭(8~10世紀中頃までに国家が発行した銭貨)が採集されています。採集されたものの中には、日本最古の銭貨と認められている無文銀銭、鋳上げたばかりの新銭もあったといわれています。和同開珎の銅銭・銀銭もみつかっています。
1975(昭和50)年に藤沢一夫氏は、この皇朝十二銭や、石造銭笵(鋳型)の出土が伝わっている事、鞴羽口、銅滓等が出土していることから、船橋遺跡に「河内国鋳銭司」が存在したとしています。また『続日本紀』の「文武紀」に「鋳銭司」、「元明紀」に「河内鋳銭司」と記載されていることも根拠になっているようです。しかし石造銭笵は現存せず、銀銭・銅銭の未成品や失敗品の出土もなく、「河内鋳銭司」が船橋遺跡に存在した確証はありません。
「鋳銭司」が置かれたかは別として、ものづくりの工房が集まっていた可能性はあります。2002・2003年に、大阪府文化財センターによって行われた「大和川改修事業」に伴う発掘で、7世紀中頃のガラス小玉製作工房が発見されたからです。調査地点は、河内橋の西北、現大和川の堤防北側にあたり、南北に走る道路状の遺構を挟んだ東西の両側で、掘立柱建物が確認されています。とくに道路の西側では掘立柱建物3棟がコの字型に配されており、建物に近接して掘られた土坑内やその周辺からガラス小玉の鋳型や鞴羽口などが出土しました。鋳型が出土した土坑には炭化物が堆積し、炉だった可能性があります。ここでガラス小玉が製作され、建物群はそれに伴う工房施設であったと考えられます。
船橋遺跡では他に、鉄滓や漆を入れた容器なども見つかっているため、鍛冶工房や漆工房があったのかもしれません。奈良県の飛鳥池遺跡のような「総合工房」があった可能性もあります。
井上寺説
船橋廃寺のある川床は志紀郡内で、その中の井於郷(いのえごう)が船橋廃寺に含まれることから船橋廃寺を井上寺と考えました。その井上寺は『元享釈書(げんこうしゃくしょ)』によると、高句麗系渡来氏族の僧・慧灌(えがん)が創建した寺とあります。また『日本霊異記 下巻第五』原山廃寺の段には「返干河内市ノ辺井上寺之里云々(河内の市の付近に井上寺があった)」とあります。この「河内の市」とは、『日本書紀』の「餌香市」に該当すると考えられ、「餌香市」と「井上寺」は近接していたとされています。
また一方で、船橋遺跡のすぐ南にある衣縫(いぬい)廃寺を井上寺とする説もあります。
※元享釈書…虎関師錬 (こかんしれん) 著。元亨2 (1322) 年成立。仏教の伝来から鎌倉時代末期までの700年間の高僧・四百余名の伝記と史実を漢文体で記したもの。
※衣縫廃寺…藤井寺市惣社。国府遺跡の範囲に含まれ、旧志紀郡志紀郷もしくは井於郷にあたる。
市場説(餌香市・えがのいち)
餌香市とは、河内を流れる餌香川(現在の石川)左岸にあった日本古代の市で、所在地は確定できませんが、現・藤井寺市の国府(こう)とする説が有力です。『日本書紀』や『続日本紀』などにも「餌香市」について記載があり、表記は会賀のほか恵賀、恵我、衛我ともされています。「餌香」の地域は雄略13年物部氏に与えられた「長野邑」を含んで、現・松原市の東部から羽曳野市の北端と推定されています。和同開珎など多数の銭貨の出土も、餌香市に関連するためと考えられています。
玉井寺説
旧川筋の北側から「玉井家(たまいのみやけ)」「大家(おおやけ)」と書かれた墨書土器が出土しました。そこに「玉井家」の屋敷が連なり、その西側に「玉井寺」があったと考えました。この寺が室町時代まで存続していたとすると『拾遺往生伝(しゅういおうじょうでん)』には「河内国玉井寺」という記載もあり、玉井氏の氏族寺院として「玉井寺」が建立されたと推定されています。
※拾遺往生伝…1111年以後まもなく成立。『続本朝往生伝』に漏れた往生者の略伝を記す。三善為康(みよしためやす)著。僧、俗人や女人往生者が取り上げられ、庶民的傾向が著しい。
土師氏の氏寺(僧寺)説
土師氏は、古墳の築造や埴輪・土器の生産に関係する有力氏族で、和泉の毛受腹(もずはら)、大和の菅原、秋篠のほか、河内では志紀郡、丹比郡を本拠地としていました。現在も法灯が続く藤井寺市の道明寺が、石川流域で暮らす土師氏の氏寺だったと考えられています。土師寺から採集された軒瓦を見ると、I期には船橋廃寺式、II期には西琳寺式Aa型式、III期には西琳寺式B型式があるなど、船橋廃寺と同笵の軒瓦が使われています。瓦の状況から、土師寺と船橋廃寺との間に強い結びつきあったと見てよいでしょう。土師寺が尼寺として創建されたという寺伝を考慮すると、船橋廃寺が土師氏の僧寺である可能性が考えられます。
国府説
交通の便など立地条件の良さと寺院跡の確証が乏しいことから、船橋遺跡を河内国府と考え、発見された掘立柱建物を国府政庁の遺構とする説です。河内国府は船橋遺跡から南の藤井寺市・国府遺跡にかけて存在したと推定されています。出土遺物が7~8世紀のものが多く、平安時代のものになると激減することから、河内国府は7世紀中頃から8世紀中頃まで存続し、その前後期間に2~3回遷国府した可能性もあるといわれています。それに関連して、官寺的な性格を考える説もあります。
一方で、志紀郡の中心にあることから志紀郡寺、もしくは志紀郡衙にあたると考える説もあります。
これまで紹介したように船橋遺跡をめぐって諸説ありますが、いまだに決定的な説はありません。しかし、船橋遺跡が古代史を考える上で重要な遺跡であることは間違いないでしょう。今後の調査の進展に期待したいと思います。