【広報コラム】「堅上郡と堅下郡」(2020・11)
2024年9月6日
特集ページで紹介したように、720年に堅上郡と堅下郡が合併し大県郡が誕生して1300年になります。「堅上」「堅下」は、それ以前からある地名ということです。奈良時代の「郡」は、飛鳥時代には「評」と記されました。どちらも正式な読み方は「こおり」となります。「大県郡」ができる前の「堅上郡」「堅下郡」は、おそらく「堅評」と呼ばれ、それが何らかの理由で2つに分かれて「堅上評」と「堅下評」となったのでしょう。
堅上評の範囲は、現在の本堂、雁多尾畑、峠地区になります。どうしてこんな山間部の狭い範囲が独立して一つの評となったのでしょう?それは、高安山にあった高安城の設置と関係があるのではないかと考えられます。663年の白村江の戦いで、日本と百済の連合軍は、唐と新羅の連合軍に完敗します。そのため百済は滅亡、唐がいつ攻めてきてもおかしくない状態となり、西日本各地に山城を築いて防衛体制を敷きました。高安城は、都のある大和の最後の防衛線でした。
高安城は667年ごろに築かれました。その高安城の維持管理のために堅上評を設けたのではないでしょうか。本堂周辺は、そのころ「巨麻(こま)里」でした。「巨麻」は「高麗(こま)」につながります。朝鮮半島の技術者らが城を築き、維持管理していたのではないでしょうか。そのために堅上評が設置されたと考えられます。
その後、701年に高安城は廃止され、712年には残されていた烽火(のろし)の機能も停止したようです。そうなると堅上郡の重要性は低下し、堅下郡と合併して大県郡となったと考えると、うまく理解できます。大県郡誕生に隠されたエピソードです。
※歴史資料館のウェブサイトに館長コラムを掲載中。
(2020年11月号掲載)
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