【広報コラム】「大和川のつけかえ ほんとうの理由は?」(2022・11)

2024年8月30日

 北へ流れていた大和川は、江戸時代の宝永元(1704)年に付け替えられ、西へと流れるようになりました。なぜ付け替えられることになったのでしょう。洪水を繰り返していたことが理由の一つですが、それだけが理由ではなかったのです。 大和川の付け替え工事には莫大な費用が必要となります。そこで経費節減の工夫をしました。川底を掘らずに両側に堤防を積み上げるだけの工事としたのです。掘削には多くの人が必要となるので、掘削量を減らすと工事費が節減できるのです。そして工事を大名に手伝わせることにしました。その分の工事費は大名の負担になります。さらに付け替え後に元の川筋は新田になりますが、新田を開発するには幕府に権利金を払わなければなりませんでした。この権利金を工事費に充てることにしました。
 幕府が付け替え工事で負担した費用は約3万7千両。新田開発の権利金で約3万7千両が入っています。つまり工事費はすべて戻ってきたのです。しかも新田からは毎年年貢が入ってきます。多額の費用がかかる付け替え工事を、幕府に利益をもたらす工事へと変えることができたのです。
 この方法を考え出したのは、幕府の役人の万年長十郎でした。付け替え工事の主役は、中甚兵衛ではなく、万年長十郎だったのです。

大和川附換摂河絵図

▲大和川附換摂河絵図(中家文書・柏原市指定文化財)

(2022年11月号掲載) 

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