【広報コラム】「徳川家康と柏原」(2024・1)
2024年8月20日
天正13(1583)年、堺に滞在していた徳川家康は、本能寺の変を知り、命からがら、山中の道を三河まで逃げ帰りました。まず、東高野街道を経て飯盛山(いいもりやま)を越えたとも、竹内峠を越えたともされます。この時、41歳。そして、それから20年あまりで、天下人の座に登り詰めました。
再び河内の地を訪れたのは、73歳のときです。すでに大御所として隠居していた家康は、豊臣秀吉の子 秀頼(ひでより) との直接対決に臨むべく、大坂に乗り込んだのでした(大坂冬の陣)。淀川沿いの京街道は狭隘(きょうあい)で軍隊の移動に適していなかったので、家康軍は、京都から奈良を経由し、亀の瀬越え・関屋越えに分かれて悠々と進軍しました。亀の瀬の要地を守るべき豊臣方の重臣、竜田藩主 片桐且元(かたぎりかつもと)は、家康との交渉の過程で豊臣方の強硬派に疑いの目を向けられ、すでに大坂城を去っていました。家康は、おそらく玉手山丘陵の北端をかすめ、住吉の陣所へと行軍しました。
翌日に開始された戦闘は、真田信繫(のぶしげ)(幸村)らの奮戦により決着せず、和議が結ばれるに至りました。豊臣家が滅びるのは、その1年後、大坂夏の陣でのことです。慶長20(1615)年5月5日の戦闘では、本市の玉手山丘陵もその舞台となり、豊臣方の猛将 後藤又兵衛の死力を尽くした戦闘により、徳川方にも多大な損害が出ました。戦いの後、玉手村の田んぼには、累々たる死体の山が築かれていたといいます。玉手山公園に現存する安福寺中興珂憶和尚(かおくおしょう)建立の石塔は、その戦死者を供養するためのものと伝えられています。
▲玉手山公園 石塔
(2024年1月号掲載)
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