【広報コラム】「百済から柏原への移住民」(2024・8)
2024年8月20日
古代寺院の屋根にのっている平瓦(ひらがわら)には、羽子板状の工具で叩きしめたあと(叩き目)が残っています。よく見られるのは縄の文様ですが、鳥坂寺(とさかでら)跡ではさまざまな叩き目がみられます。こんな平瓦は鳥坂寺以外ではみられません。ところが、百済の王宮のあった公山城や官北里遺跡で同じような平瓦が多数出土しています。鳥坂寺の瓦作りに、百済から渡来した人たちが関わっていたようです。
日本の古墳時代、朝鮮半島は高句麗、百済、新羅の三国時代でした。しかし、唐と新羅が手を組んで百済に攻め込み、百済は660年に滅びました。日本は百済を助けるため、大量の軍を送って白村江で唐の軍と戦いましたが、大敗してしまいました。現在も国際紛争によって多くの難民が国外へ逃れようとしています。百済も同じでした。その数は数千人から1万人以上に上ったようです。
柏原には、それ以前から多数の百済系渡来人が定着していました。百済から逃れてきた人のなかには、先に渡来していた彼らを頼って柏原の地にやってきた人も多かったと思います。鳥坂寺を含む河内六寺は、7世紀後半に次々と建立されました。短期間に次々と寺院を建立できたのは、百済からの移住民の力があったからではないでしょうか。寺院の建立を望む渡来系氏族たちのもとで、衣食住だけでなく、職も提供されたのです。現在も難民を受け入れる際に問題となるのは、職業です。それを見事に実践していたといえるでしょう。
▲公山城の平瓦
(2024年8月号掲載)
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