【コラム】変化する大和川つけかえ運動(10)大和川の付け替えとその後
付け替えを前提とした元禄16年(1703)の検分に、中甚兵衛も同行していたようです。ところが、城連寺村の史料では、「下河内願人」と書かれているのみで、甚兵衛の名が見えません。付け替え反対派には、「中甚兵衛」という名はあまり知られていなかったようです。
中甚兵衛は、幕府にその見識が認められたためか、付け替え工事にも普請御用として参加しています。息子の九兵衛や近隣の村の者4~5名も参加したようです。その経費負担を、一部の村が拒んだので、甚兵衛が激しく叱責したといいます。
旧川筋の新田開発には、町人や寺院、有力農民らが参加しました。その開発者として、新川流域の村の有力農民がかなり参加しています。潰れ地の代替地として充てられた土地を集積し、開発したものと考えられます。太田村の柏原仁兵衛が開発した柏村新田や、新川流域の有力農民の共同開発による市村新田などがみられますが、旧流域の農民による新田開発はあまりみられません。大規模な開発を行っているのは中甚兵衛と息子の九兵衛くらいです。中家の蓄財が相当な額であったと考えられ、新田開発ができるような人物に、工事参加の負担金など払いたくないという村があっても不思議ではないように思います。
念願かなって付け替えが実現した旧流域ですが、たびたびの洪水に悩まされていたとはいえ、その大和川から田畑の用水を得ていたので、水源がなくなると困ってしまいます。そこで付け替え工事に伴って、新大和川から用水を取水することを求めていました。具体的には、久宝寺川跡地と玉櫛川跡地にそれぞれ用水路を設け、その用水を村々で利用するというものでした。そのため流域78ケ村で築留樋組を結成し、この用水を共同管理することになりました。この組合は、現在の築留土地改良区に続いています。
この用水組合に参加した村々は、もともと付け替え運動に参加していた村です。それまでと運動の目的は変わりましたが、村々が連携して取り組むことには慣れていたのではないでしょうか。用水に関わらず、そのほかの連携においても、河内の村々は、領主の違いを乗り越えて周辺村々と連携することが多かったようです。河内の国の特徴といってもいいかもしれません。大和川つけかえ運動も、中甚兵衛という一人の人物で考えるのではなく、村々の共同の取り組みとして考えなければならないと思います。
(安村)
築留・青地樋用水組合村々絵図(当館所蔵小山家文書)