【コラム】変化する大和川つけかえ運動(9)元禄年間の付け替え運動
元禄2年(1689)に治水工事の嘆願書が提出されたあと、しばらく大規模な洪水はなかったようです。そして元禄11年(1698)5月から翌年2月にかけて、河村瑞賢による大坂市中を中心とした工事が再び実施されました。
ところが元禄13年(1700)、14年(1701)に、またもや大規模な洪水が大和川流域を襲いました。14年には、甚兵衛の今米村では収穫がなかったといいます。これを視察に来た堤奉行の役人に、42ケ村で堤の修復工事などを求めたところ、付け替えを検討していると知らされたということです。42ケ村の代表者が堤奉行のもとに付け替えを進めるよう申し出たところ、大勢では困るので水走村の弥次兵衛と今込村の甚兵衛のみが呼び出されるようになり、やがて甚兵衛のみが呼び出されるようになったということです。
どうやら元禄11年頃に堤奉行に着任した万年長十郎が、大和川の付け替えを模索していたようです。洪水対策は当然ですが、それだけでなく、この付け替え工事を財政難にあえぐ幕府に利益をもたらす工事にできないかと画策していたようです。旧川筋の新田開発による地代金を積算し、幕府の出費を地代金収入までに抑え、残りは手伝い大名に負担させる、そのために如何に工事費を抑えることができるか、と考えていたようです。旧川筋では、新川によって失われる田畑の4倍の面積が新田になることがわかっていました。その新田からの年貢が、その後の幕府の増収となるのです。万年のしたたかな計算によって、費用負担を恐れていた付け替え工事が、幕府に利益をもたらす工事となったのです。おそらく、新田開発に関わる町人や甚兵衛らの意見も取り入れて考えた結果でしょう。
大和川流域の百姓らの喜ぶ姿が目に浮かぶようです。一方、新川流域の人々は、20年近くも話題にならなかった大和川の付け替えが急に現実のものとして現れたのです。それまで5~6年ごとに行われていた検分が20年も実施されていなかったことを見ても、この間の幕府の対応から考えても、付け替えが検討されることは二度とないと考えていたはずです。青天の霹靂だったでしょう。
(安村)
旧川筋に開かれた新田