【コラム】変化する大和川つけかえ運動(8)貞享4年3月以降の付け替え運動

2024年10月22日

 前回紹介したように、貞享4年(1687)の1月頃に付け替え嘆願書が提出されましたが、幕府の付け替え不要という方針のもと、貞享4年3月7日に提出された嘆願書「乍恐御訴訟言上」では、法善寺前二重堤の修復などの治水工事を求めています。30年近く訴えてきた付け替えではなく、治水工事の嘆願に変わったのです。これ以降、元禄14年(1701)頃まで付け替えを求めることはなく、一貫して治水工事を求める運動になっています。付け替え運動の大きな方針転換です。

 この嘆願書では、「御普請被成下候ヘハ、高米七万石余之百姓永々御助ニ罷成候」とあります。差出人は河内郡、若江郡、讃良郡、茨田郡、高安郡の5郡となっています。1月頃の付け替え嘆願書では、15万石余の百姓とあったのが、7万石余に減少しています。運動に参加する村が、半分ほどに減ったことがわかります。おそらく洪水がほとんどなくなっていた久宝寺川筋の村々が、運動から離脱することになったのでしょう。

 その2年後、元禄2年(1689)12月にも「乍恐御訴訟」が提出されました。要望は、今津村から放出村への水路を造って欲しいという1点のみです。差出人は、河内郡、若江郡、讃良郡、茨田郡の4郡、3万石余の百姓となっています。先の嘆願書から高安郡が離脱しています。

 ここまで見てきたように、付け替え運動は、付け替えを求める運動から水の流れがよくなるような治水工事を求める運動に変わり、その運動に参加する村々も15万石、7万石、3万石と減っていたことがわかります。しかも、貞享4年8月の嘆願書では、茨田郡のところに河内郡の中甚兵衛の印が押されています。茨田郡には、印を押してくれる庄屋もいなくなっていたということでしょう。つまり運動に関わることを拒む村が増え、甚兵衛らの運動は孤立していたということです。

 このあと、実際に大和川の付け替えが決定されるまで、付け替え運動は終息していたと考えて問題ないでしょう。そのような中、急に付け替えが決定されたのです。

 (安村)

「乍恐御訴訟言上」(貞享4年3月7日、当館所蔵中家文書・市指定文化財)

「乍恐御訴訟言上」(貞享4年3月7日、当館所蔵中家文書・市指定文化財)

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