【コラム】変化する大和川つけかえ運動(7)貞享4年の付け替え嘆願書

2024年10月15日

 貞享4年(1687)1月頃、またも大和川の付け替えを求める嘆願書「乍恐御訴訟」が提出されました。これが現存する唯一の付け替え嘆願書です。天和3年(1683)の検分の結果、幕府が付け替え不要の方針を徹底し、河村瑞賢が淀川河口の工事を実施、その後大和川の流れをよくするために河川敷の葭の刈り取りなどの工事を実施中のことでした。

 嘆願書には、河州摂州水所村々百姓共ニ而御座候とあり、冒頭に「先年ゟ奉願候、大和川之流、船橋村前より堺之北之方海迄、川違被為成被下候得ハ、水所拾五万石余之百姓、永々迄之御助ニ罷成候ニ付、乍恐川違御願申上候御事」とあります。「以前からお願いしていますように、大和川の流れを船橋村の前から堺の北の海まで付け替えをしていただけるならば、洪水で困っている15万石余りの村々の百姓が永遠のお助けになりますので、恐れ多いことですが、付け替えをお願い申し上げます。」という内容です。これに続いて、自分たちがどれだけ困っているかを訴えています。石(こく)とは米の収穫量のことで、村ごとに石高(こくだか)が決められていました。15万石ならば、ほぼ河内の平野部全体になります。

 この嘆願書に対して、幕府は激しい叱責のうえで、付け替え不要を申し渡したことでしょう。同じ貞享4年の3月には、付け替えではなく大和川の水がうまく流れるような治水工事の実施を求める嘆願書が提出されていることなどから、幕府の回答がかなり厳しいものだったことがわかります。当然ながら検分を行うこともなく、反対派の動きもありませんでした。それは当然でしょう。付け替え不要を決定し、幕府の費用で瑞賢に淀川の工事などを実施させていたのですから。これ以降、付け替えを求める嘆願書が提出されることは、なくなりました。

 中甚兵衛の中家文書には、貞享4年以降の大和川に関する史料が多数残されており、これ以前の史料はありません。これまでの経緯とこの事実から、天和3年までの付け替え運動は曽根三郎右衛門と山中治郎兵衛が中心であり、二人が運動から撤退したあと、貞享4年以降の運動は甚兵衛が中心であったことがわかります。この嘆願書は、15万石余りの郡、もしくは村々からの嘆願書だったはずですが、肝心の提出日、宛先、差出人の部分が切断されて残っていません。幕府の回答を受けて、幕府の心証を悪くすると考えた村々から、差出人等を削除するように求められたのではないでしょうか。

 (安村)

貞享4年の付け替え嘆願書「乍恐御訴訟」(当館所蔵中家文書・市指定文化財)

貞享4年の付け替え嘆願書「乍恐御訴訟」(当館所蔵中家文書・市指定文化財)

【コラム】変化する大和川つけかえ運動
資料館TOP

お問い合わせ

文化財課
582-0015 柏原市高井田1598-1(歴史資料館内)
電話072-976-3430
ファクシミリ:072-976-3431