【コラム】変化する大和川つけかえ運動(6)天和3年の検分と付け替え運動

2024年10月8日

 延宝4年(1676)の4回目の検分のあとも、同年、延宝9年(1681)などに洪水がありました。堤が切れたのは、やはり玉櫛川筋のみのようです。続いて天和3年(1683)には、2月から閏5月まで約4カ月を費やして畿内一円の河川の検分が実施されました。この検分でも大和川の付け替えが大きな検討事項だったようで、4月18日付けと23日付けの付け替え反対嘆願書が残っています。幕府は、二つのルートについて付け替えの可否を検討しました。これに対して、やはり付け替え促進派の史料は残っておらず、反対派の史料から付け替え運動の内容について推測せざるを得ません。

 4月18日付けの付け替え反対嘆願書である「川違迷惑之御訴訟」では、「芝村三郎左衛門、吉田村次郎兵衛立申候傍示之通、国府村・舟橋村ゟ新川御付ケ被遊候得ハ」とあります。三郎左衛門は曽根三郎右衛門、次郎兵衛は山中治郎兵衛のことです。おそらく、この二人が幕府の指示によって、従来から訴えている新川予定地に杭を打つように命じられ、傍(牓)示杭を打ったのでしょう。三郎右衛門は、一部とは思いますが、幕府の検分に同行していたという史料もあります。これに対して反対派が訴えているのです。

 また嘆願書には、「河内国の半分にあたる百姓が大和川の付け替えを求め、付け替えられては困るという者がいないかのように、毎年でたらめな訴えをしていることを私たちは知っている。」と訴えています。ここから、たびたび付け替えを求める嘆願書が出されていたことがわかります。

 この検分の結果、付け替えについて幕府の意見も分かれたようですが、検分に同行していた河村瑞賢の意見が採用されて付け替え不要となり、このあと瑞賢の提案通り淀川河口などの工事が実施されます。これによって、幕府の付け替え不要という方針が徹底されることになりました。

 これ以降、三郎右衛門や治郎兵衛の名は史料に見えなくなります。幕府の方針によって付け替えをあきらめることになり、ここまで運動を続けながら付け替え不要となったことで、周辺村々からも不評を買ったと考えられます。

 (安村)

天和3年(1683)4月18日に提出された付け替え反対嘆願書の前半部分(松永白洲記念館所蔵、船橋村の文書)

天和3年(1683)4月18日に提出された付け替え反対嘆願書の前半部分(松永白洲記念館所蔵、船橋村の文書)

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