【コラム】変化する大和川つけかえ運動(5)延宝4年の検分と付け替え運動

2024年10月1日

 延宝2年(1674)6月に、大和川・淀川で大規模な洪水がありました。大和川では、玉櫛川筋の35ケ所で堤防が切れました。また、大県郡法善寺前の二重堤が壊滅しています。大和川が久宝寺川と玉串川に分岐する地点の玉櫛川口に、本堤とは別に川の中に堤防が一本築かれていました。これを法善寺前二重堤と呼んでおり、玉櫛川に入る水量を抑えるための堤防でした。この堤が壊滅してしまったため、玉櫛川への流量が増加し、玉櫛川筋で多数の堤切れがおこったのです。玉櫛川流域の村々は、このあと法善寺前二重堤の修復を求めていますが、修復されることはありませんでした。そのため、これ以降の大和川の洪水は、玉櫛川筋に集中することになりました。

 翌延宝3年6月にも玉櫛川筋で19ケ所の堤切れをおこす洪水がありました。延宝2年が寅年なので寅年洪水、翌年の洪水を卯年洪水と呼び、両者を合わせて寅卯洪水と呼ばれました。この洪水は前後に例を見ない洪水として、人々の記憶に残ることになりました。

 寅卯洪水によって、流域の村々は付け替えを願い出たようですが、その史料はやはり残っていません。これを受けて、幕府は延宝4年(1676)3月15日に、大坂西町奉行彦坂重紹(しげつぐ)、船手頭高林又兵衛らが、4回目の検分を実施しました。反対派は17日に大坂西町奉行へ大勢で詰めかけ、それを聞いた付け替え促進派も吉田村の山中治郎兵衛に扇動されて町中へ繰り出し、大坂が大騒ぎになったという記録が残っています。

 この検分の際にも付け替えを求める人々の史料は残されていませんが、付け替えに反対する村々の「乍恐御訴訟」という嘆願書の写しが残されています。内容は多岐にわたりますが、要約すると、新川によって土地を失うこと、新川南側が排水不良地となること、新川北側では水不足になること、新川の計画川筋は地形的に無理があることなどを指摘しています。さらに瓜破や上町台地は大規模な掘削が必要になること、水当たりの強い右岸堤防は決壊の恐れがあること、付け替えを求める人々がいうほど新田ができないこと、道路が寸断されること、などもあげています。反対派は、柏原村の忠右衛門ら9名が、この嘆願書を持って江戸まで訴え出たということです。

 反対派の嘆願内容から、付け替え促進派が付け替えれば旧川筋に多くの新田ができることなどを理由に訴えていたことがわかります。しかし、このときも付け替え不要、山の荒廃を防ぐようにという指示が出されただけのようです。

 (安村)

堤切所之覚附箋図(当館所蔵中家文書、市指定文化財) 

堤切所之覚附箋図(当館所蔵中家文書、市指定文化財)

同図の法善寺前二重堤

同図の法善寺前二重堤

【コラム】変化する大和川つけかえ運動
資料館TOP

お問い合わせ

文化財課
582-0015 柏原市高井田1598-1(歴史資料館内)
電話072-976-3430
ファクシミリ:072-976-3431