【コラム】変化する大和川つけかえ運動(4)寛文5年・11年の検分と付け替え運動

2024年9月24日

 幕府の2回目の検分は、寛文5年(1665)5月に行われています。小姓組松浦猪右衛門信定、書院番阿倍四郎五郎政重らが、淀川・木津川・大和川を巡視しています。おそらくその前に、大和川筋から付け替え、もしくは大規模な工事の嘆願が出されていたのではないかと考えられますが、史料は残っていません。

 この検分の結果、山の荒廃による土砂流出が洪水の大きな原因と考えられ、翌年3月に幕府から「山川掟之覚(やまかわおきてのおぼえ)」というお触れが出されました。その触れには、次のようなことが書かれています。(1)木の根を掘り出すことが土砂流出の原因なので、今後草木の根を掘り起こしてはならない。(2)樹木のないところには、苗木を植えて土砂流出を防ぐこと。(3)川の中に田畑を開いたり、竹や葭を植えてはならない。

 さらに同じ年の8月に、淀川・大和川・木津川に堤川除破損修復奉行(つつみかわよけはそんしゅうふくぶぎょう)を派遣し、堤防の修復などを行っています。このときも、山からの土砂流出を防げば、洪水はおこらないと考えていたようです。

 3回目の検分は、寛文11年(1671)10月に、永井右衛門直右(ながいうえもんただすけ)、藤懸監物永俊(ふじかけけんもつながとし)によって行われました。このときも、付け替え運動に関わる史料は残されていませんが、付け替え反対派の史料が残されており、検分の内容は概ね理解できます。

 柏原村領・船橋村領内から住吉手水橋まで、1町(約109m)ごとに牓示杭(ぼうじぐい)が打たれました。牓示杭とは、範囲等を明確にするための目印の杭で、この場合は新大和川予定地に打たれたということです。このルートは、現在の大和川のルートに一致します。この検分の結果、付け替え工事の担当役人まで決まっていたようです。

 これに対して、新川予定地周辺の村々は反対を訴えました。「新川ができれば自分たちは生きていくことができない。自殺する者もいる。気が狂ってしまった者も多数いる。」と訴えましたが、幕府はまったく取り合ってくれなかったようです。ところが、理由はわかりませんが、翌年2月に急に付け替え中止が発表され、3月には牓示杭も抜かれました。ただ、この間の付け替えを求める人たちの動きは、史料が残っていないため明らかにできません。おそらく、強く付け替えを訴え、実現できそうになって喜んでいたところ、急に付け替え中止となり、嘆き悲しんだことでしょう。

 (安村)

付け替えを求めた郡(色塗り)と反対を訴えた村

付け替えを求めた郡(色塗り)と反対を訴えた村

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