【コラム】変化する大和川つけかえ運動(3)付け替え運動の始まりと幕府の検分

2024年9月17日

 江戸時代の大坂では、何か訴えたいことがあると、大坂町奉行所に訴えました。農民が幕府に訴えても幕府は何も聞いてくれなかったと思っている方もあるかと思いますが、奉行所では、訴えがあると慎重に検討し、内容によっては江戸の幕府まで相談して結論を出していました。

 大和川の付け替えについて、幕府は万治3年(1660)、寛文5年(1665)、寛文11年(1671)、延宝4年(1676)、天和3年(1683)に検分を実施していました。検分(見分)とは、現地調査のことです。大和川の付け替えの場合、流域の洪水被害を調査するだけでなく、新しい川を造るならば、どこへ造ればいいか、現地調査も実施しています。新しい川の予定地に1町(約109m)ごとに杭を打ち、幅100間(180m)の川を造るので、杭の両側50間(90m)にも杭を打ち、新川がどの範囲まで影響を与えるかを確かめ、高さを測って水を流すことができるか、なども検討しました。この検分が実施されたのは、付け替えを求める訴えがあったから実施されたのです。つまり、検分の年か、その前年頃に付け替えを求める訴えが提出されていたと考えられるのです。ところが、これら5回の付け替えを訴えた文書が、まったく残っていません。検分が行われると、付け替えに反対する村々が付け替え反対の訴えを提出しています。その反対派の記録から、断片的に付け替えを求めた村々の訴えた内容を知ることができるのみです。

 城連寺村(松原市)の『新大和川堀割由来書上帳』(寛政8年・1796)に、「下河内村々願始より元禄十六未年迄、凡四拾五ケ年ニ成申由」とあります。江戸時代には昨年を二年前、一昨年を三年前と数えるので、元禄16年(1703)の45年前とすると、万治2年(1659)となります。付け替え反対派の記録ですが、付け替え運動は万治2年に始まったと記されているのです。最初の付け替え検分が万治3年でした。万治2年に初めて付け替えを求める訴えが提出され、万治3年に検分が実施されたならば整合的です。付け替え運動は万治2年に始まったと考えていいのでしょう。しかしその結果は、山が荒れるのを防ぎなさい、川浚えをしなさい、ということで付け替えはされませんでした。

 幕府の付け替え検分は5~6年ごとに実施されています。付け替えを求める訴えが提出され、検分を実施し、付け替え見送り。その2~3年後にまた洪水。また訴え、検分、見送りが繰り返されていたことがわかります。

 (安村)

古大和川附換前水害下調図(堤防比較調査図、当館所蔵中家文書、市指定文化財)

古大和川附換前水害下調図(堤防比較調査図、当館所蔵中家文書、市指定文化財)

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