【コラム】変化する大和川つけかえ運動(1)大和川付け替えに対する誤解
当館では、毎年秋に「大和川の付け替え」をテーマにした企画展を開催しています。大阪の小学4年生が「大和川の付け替え」について学習していることに合わせて、学習の参考にしてもらい、当館から歩いて30分足らずの付け替え地点周辺を見学することによって、学習の理解を深めていただきたいという趣旨で開催しています。
北に流れていた大和川を、西に流れるように付け替えられたのが宝永元年(1704)です。それから300周年を迎えた平成16年度(2004年)に、新旧大和川流域の八つの博物館・資料館が集まって大和川水系ミュージアムネットワークを結成し、さまざまな展示、イベントを実施するとともに、大和川の付け替えについて学術的な研究も深めることができました。それまで大和川の付け替えの研究は、中甚兵衛十代目の中九兵衛氏の研究が唯一といっていいような状態でした。その後、当館でも調査・研究を重ね、付け替えに対する誤解が多いことに気付くとともに、その誤解を訂正していかなければならないと考えてきました。中九兵衛氏の研究が基本となるのですが、中氏の研究だけでは理解できない部分があることもわかってきました。
かつて、大和川を付け替えたのは中甚兵衛であるとされていました。中には、甚兵衛が私財を投げ打って付け替えたと書かれたものもありました。しかし、付け替えのような大規模な工事を実施するのは幕府であり、一農民ができるはずがありません。また、中甚兵衛が周辺の村々に付け替えの必要性を訴え、その運動が盛り上がって、最後には幕府も付け替えを認めざるを得なくなったと書かれたものもあります。現在でも、甚兵衛が反対する村々を説得し、付け替えが実現したと書かれている教科書もあります。
しかし、そのような事実はどこにも見られません。付け替えの実態を知ることができるのは、その当時に書かれた文書(史料)だけなのです。限られた史料から事実を読み取り、少しずつ実態に迫っていく、それが研究です。中甚兵衛をヒーローに仕立て上げて、そのおかげで付け替えが実現した、という話はわかりやすくて受け入れやすいものでしょう。しかし、一人の人物が付け替えのような大事業を成し遂げることは考えられません。大和川付け替えの実態に少しでも迫りたい。その思いをもって取り組んできた研究成果について紹介することに努めています。「変化する大和川つけかえ運動」もその一環です。これまでのコラムと重複するところもありますが、付け替え運動を基軸に考えました。
(安村)
中甚兵衛肖像画(当館所蔵中家文書・市指定文化財)