【コラム】大和川のつけかえ-つけかえしないと決めてから- (10)急に決まった付け替え
一般に付け替え運動の中心人物とされるのは中甚兵衛ですが、天和3年(1683)まで中心となって付け替え運動に取り組んでいたのは、芝村の曽根三郎右衛門と吉田村の山中治郎兵衛でした。異なる村の複数の文書に二人の名が残されており、中甚兵衛の名はどこにも出てこないことから、この二人が中心だったと考えて間違いないでしょう。二人は天和3年の検分の際に新川筋の傍示杭を打ち、三郎右衛門は検分にも同行していたようです。
ところが、これ以降二人の名は史料に見えなくなります。天和3年の検分の結果が、あまりにも厳しいものだったことから、運動から離れることになったのでしょう。周辺の村々からも相手にされなくなったのではないでしょうか。
そのような状況のもと、付け替え運動を展開することになったのが中甚兵衛だったと考えられます。中家に残されている史料には貞享4年以前の史料がないことからも、甚兵衛が運動に中心的にかかわるようになったのは貞享4年以降と考えられます。ところが付け替え嘆願はかなわず、治水工事の嘆願もうまくいかずに、運動に協力する村は次第に減っていきました。甚兵衛が中心になって運動が盛り上がり、最後には幕府に付け替えを認めさせたというこれまでの説とは、まったく逆だったことがわかります。甚兵衛は周辺の村々からも相手にされず、孤立していったことでしょう。それでも運動を続けていた点で甚兵衛を評価するべきでしょう。
一方、幕府では元禄11年(1698)ごろから、堤奉行となった万年長十郎が中心となり、大和川の付け替えについて検討を始めていたようです。付け替えの工事費をどうするか、付け替えによる経済効果はどの程度になるか、など経済重視で長期的な視点から検討していたようです。その最中の元禄13・14年(1700・01)に、河内はまたもや大規模な洪水に見舞われたようです。ここで幕府は付け替えへと完全に方針転換したようです。万年は町人や甚兵衛らの考えも聞き、付け替えることに決めました。付け替え運動がほぼ終息したころになって、幕府は急に付け替えを決めたのです。付け替えることに決まった理由については、コラム「大和川のつけかえ ほんとうの理由は?」をご覧ください。
(安村)
中甚兵衛肖像画(中家文書)