【コラム】大和川のつけかえ-つけかえしないと決めてから- (9) 幕府の対応と瑞賢の二期工事

2023年11月9日

 幕府は河村瑞賢に治水工事を任せるだけでなく、治水のために制度の整備などにも取り組んでいました。貞享元年(1684)には土砂留制度を整備しています。洪水が起こるのは、山から土砂が流出して河床が埋まることが大きな原因なので、山林の乱伐を禁止し、植樹を奨励して土砂の流出を防ぐことが必要でした。これを土砂留めといい、幕府は土砂留めが実施されているかどうかを監視するために土砂留担当の大名を決めて、各村を巡視させました。また、貞享4年(1687)には、毎年の川浚いなど川筋支配を行う川奉行を設置しました。同じ年の9月には、「川筋御仕置」の高札を立て、葭の刈り取り、河川敷の耕作禁止、堤の管理などを定めましたが、これらの制度が、どれほど効果があったのか疑問です。土砂留大名は各村をまわって問題がないか聞くだけです。村は問題ないと答えて接待するだけなのです。川筋の管理も水の流れが多少よくなる効果はあったでしょうが、一時的なもので根本的な解決策ではありませんでした。自分たちの利益に結びつかないことを徹底させるのはむずかしかったと思われます。

 河村瑞賢の治水工事や幕府の対策にもかかわらず、河内の洪水はなくなることはありませんでした。そのため、瑞賢は元禄11年(1698)5月から再び淀川・大和川の治水工事に着手することになりました。これを二期工事とします。

 二期工事では、大坂の西横堀川と木津川の間に幅30間(54m)、長さ12町(1,300m)の堀江川が開削されました。大和川では、久宝寺川の植松・高井田の突出部などを取り除き、小坂の用水樋を伏せ替えています。淀川との合流点近くの今津、左専堂、放出でも外島を取り除いています。そのうえで、淀川河口で町人参加による新田開発を行い、元禄12年(1699)2月に完工しています。瑞賢の工事は、やはり大坂市中中心で、大和川の洪水対策とはなりませんでした。新田開発など経済優先の瑞賢の考えが伺えます。

 このような経過のなか、付け替え運動は終息に向かっていましたが、幕府内で再び付け替えの検討が始まっていたようです。

 (安村)

「大和川附換摂河絵図」(中家文書)

「大和川附換摂河絵図」(中家文書)
 付け替え前の大和川と新川が描かれている。

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