【コラム】大和川のつけかえ-つけかえしないと決めてから- (7) 河村瑞賢の治水工事

2023年10月26日

 河村瑞賢は伊勢国度会郡東宮村の出身で、明暦の大火の際に巨利を得、航路の整備、鉱山開発など多方面で活躍しました。今風にいうと実業家であり、その知見を見込まれて天和3年(1683)の検分に同行し、大和川の付け替え不要という自らの考えを採用させています。そして、その年の9月に幕府から淀川・大和川の治水工事を一任され、翌貞享元年(1684)2月11日から淀川の治水工事に着手しています。

 瑞賢は、大和川と合流する部分から下流の淀川の流れをよくすることを最重要課題とし、河口の流れを妨げていた九条島の中央に、幅40間(72m)の新川を掘削しました。これがのちに安治川とよばれるようになります。ユニバーサルスタジオジャパンの南を流れている川です。瑞賢も300年後にこんな施設ができるとは思ってもみなかったでしょう。工期はわずか20日、両岸は石積みで護岸されていました。川の掘削土で堤を築き、堤上に松を植え、この堤は瑞賢山と呼ばれ船の航行の目印になったということです。さらに水が流れなくなっていた堂島川を掘り下げ、土佐堀川との分流をうながしました。これらの治水工事によって、淀川河口の流れはかなりよくなりました。大坂市中の排水もよくなったようです。

 工事の中間報告で瑞賢が江戸へ下っていたとき、堀田正俊の刺殺事件がありました。これによって工事は一時中断しましたが、12月に再開することができ、貞享2年(1685)に淀川の治水工事は終わりました。続いて貞享3年(1686)3月から大和川の治水工事に着手し、まず石川との合流点付近の舟橋村・柏原村の堤外島が取り除かれました。外島とは河川敷に営まれた耕作地のことで、水の流れを妨げるということで幕府からもたびたび禁止令が出ていましたが、耕作地として認めると年貢を徴収することができるので、なかなかなくなりませんでした。

 また、森河内から京橋まで、すなわち淀川と合流する直前の流路を拡幅し、直線化しました。さらに河川敷の葭の刈り取りを進め、大和川の流れをよくするための工事を実施し、貞享4年(1687)5月に完工しています。

 しかし、瑞賢の治水工事中にも大和川筋で洪水がおこっています。これを請けて、貞享4年(1687)1月頃に付け替えを求める嘆願書が出されました。

 (安村)

「摂河両国水脈図」(柏元家文書)淀川河口部分

「摂河両国水脈図」(柏元家文書)淀川河口部分

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