【コラム】大和川のつけかえ-つけかえしないと決めてから- (6) 天和3年の付け替え検分(4)-付け替え不要の決定-
天和3年(1683)の検分は、3か月に及ぶ広範囲の検分でした。大和川の付け替えだけでなく畿内全体の治水体系を把握し、今後の治水対策の資料にしようとしたのでしょう。その結果、やはり付け替え不要という結論になりました。
幕府の責任者である稲葉正休は付け替えたほうがいいと考えていたようですが、河村瑞賢は付け替えは取るに足らない愚策だと考えて、強固に付け替え不要を訴えていたようです。結局は稲葉らも瑞賢の考えを採用し、検分の結論として付け替え不要となりました。
瑞賢は、従来どおりの山林乱伐の禁止、植樹の奨励、川中の葭の刈り取りなどのうえ、淀川河口の河道の直線化、拡幅などによって淀川の水の流れをよくすれば大和川の洪水はなくなる、新川を造るとすぐに河床が高くなり、船の運航が困難になるなどと主張しました。瑞賢はほんとうに大和川流域の村々の洪水対策を考えていたのでしょうか。船の運航など町人への思いが強く、百姓のことはあまり考えていなかったように思います。検分の結果に基づいて、翌年から瑞賢の淀川治水工事が行われることになりました。
それまで5~6年ごとに実施されていた検分は、こののち付け替え工事前年の元禄16年(1703)まで20年間実施されることはありませんでした。天和3年の付け替え不要という結論が、絶対的なものだったことがわかります。
瑞賢の淀川治水工事は貞享元年(1684)2月に着工されました。この工事については次回に見ますが、その年の8月に若年寄の稲葉正休が大老の堀田正俊を刺殺するという事件が江戸でおこります。稲葉は天和3年の検分の責任者だった人物です。この事件の原因について、大和川付け替えに対する衝突が原因だったとされ、講談にもなっています。付け替えを主張した稲葉が、瑞賢の意見を採用して付け替え不要とした堀田に恨みをもっていたというのです。堀田と稲葉はそれ以前から対立していたようで、大和川の付け替えが刺殺につながったとは考えられません。
天和3年の付け替え不要の決定、これが大和川の付け替え工事実施を遅らせたことは間違いないでしょう。
(安村)
付け替えに賛成した郡と反対した村