【コラム】大和川のつけかえ-つけかえしないと決めてから- (2) 5回の付け替え検分
万治3年(1660)に最初の付け替え検分が実施されてから、寛文5年(1665)、寛文11年(1671)、延宝4年(1676)、天和3年(1683)と5回の検分が実施されています。5~6年ごとに実施されていたことになります。検分が行われているということは、その年か前年に付け替えの嘆願書が提出されているはずです。嘆願に参加した村には、その嘆願書の控えが残されているはずなのですが、これまでのところ、これらの付け替え嘆願書はまったく発見されていないので、内容の詳細がわかりません。
4回めまでの検分の結果は、いずれも付け替え不要というものでした。洪水の原因は、周辺の山の土砂が流出して河床に土砂が堆積するためなので、土砂が流出しないように草木の根の掘り起こし禁止や植樹の奨励を命じました。そして、川底を掘り下げれば洪水はなくなるという結論でした。しかし、ほんとうにそれで洪水がなくなると考えていたのでしょうか。工事に多額の費用が必要となること、大規模な工事となることなどから、今のままでなんとかならないかと考えていたのではないでしょうか。
幕府が付け替え不要とする理由の一つに、付け替え反対運動がありました。検分を実施すると、新川予定地周辺の村々から付け替え反対の嘆願書が提出されました。反対理由は多数あるのですが、新川により多くの土地を失うこと、新川より南側が排水不良地になること、新川より北側では水不足になること、この3点が主な理由であり、実際に付け替え後にもっとも大きな問題となったのは、この3点でした。
山の荒廃を防ぐような命令だけで洪水がなくなるとは考えられません。またもや洪水がおこり、また検分を実施するということが、5~6年ごとに繰り返されていたのです。そして、天和3年(1683)に5回めとなる大規模な検分が実施されました。その結果、付け替え不要が徹底されたようです。その後、付け替え前年の元禄16年(1703)まで、20年間も検分は実施されておらず、付け替え運動も治水工事を求める運動に変わり、その運動に参加する村もどんどん少なくなっていたことがわかっています。天和3年の結論が徹底されていたことがわかります。ところが付け替え運動もほぼ終息したころになって、幕府は付け替え実施を決定したのです。今回は、この天和3年の検分と、その影響について考えてみたいと思います。「つけかえしないと決めてから」です。
(安村)
「大和川違積り図」(中家文書)
新大和川の予定ルートが描き込まれている。