【コラム】大和川のつけかえ-つけかえしないと決めてから- (1) 付け替え運動のはじまり
大阪平野になんども洪水をもたらしていた大和川は、宝永元年(1704)に付け替えられることになりました。北へと流れていた川を、西へと流れるようにしたのです。付け替え前の大和川は、久宝寺川、玉櫛川、平野川などに分かれて流れ、大坂城の北で、もとの淀川(今の大川)に流れ込んでいました。しかし、なだらかな平野を流れていたため水が流れにくく、大雨が降るとすぐに洪水をおこしていました。
やがて洪水に苦しむ人たちから、大和川を付け替えてほしいという願いが出されるようになりました。大和川の付け替え運動がいつごろから始まったのか、正確にはわかりませが、付け替えを求める嘆願書が提出されると、幕府は付け替えが必要かどうか、付け替え予定地の調査を実施しています。これを検分(見分)といいます。検分では、付け替え予定ルートに1町(約109m)ごとに杭を打ち、地形や周辺の村の様子などを確認しながら、付け替えが可能かどうか、付け替えするべきかどうか、などを検討します。
幕府による最初の大和川付け替え検分は、万治3年(1660)に実施されています。この事実から、その直前に付け替えの嘆願書が出されていたと考えられます。河内国丹北郡城連寺村(現松原市)の「新大和川堀割由来書上帳」(長谷川家文書)には、「下河内村々願始より元禄十六年未年迄、凡四拾五ケ年ニ成申由」と書かれています。「大和川下流の村々が付け替え嘆願を始めてから元禄16年まで、およそ45年になるということである。」という意味です。江戸時代は、昨年を二年前、一昨年を三年前と数えるので、元禄16年(1703)の45年前となると、万治2年(1659)となります。万治2年に初めて付け替えを求める嘆願書が提出され、それを受けて翌年に検分が実施されたならば、矛盾無く理解できます。嘆願書は残っていませんが、最初に付け替え嘆願書が提出されたのは万治2年(1659)と考えて間違いないでしょう。
なお、「新大和川堀割由来書上帳」には、「下河内ノ内芝村三郎左衛門・吉田村次郎兵衛与申者、度々江戸江詰、願上」とあり、付け替え運動の中心人物として二人の名をあげています。そこには中甚兵衛の名はみえません。二人は最初から運動を中心になって展開していた人物なのでしょう。
(安村)