【コラム】百済の王族が眠る? 高井田山古墳 (6)高井田山古墳と渡来系技術者
『日本書紀』には、王族だけでなく今来才伎(いまきのてひと)や手末才伎(たなすえのてひと)と呼ばれる技術者などが、雄略朝に百済から渡来してきたことが記されています。陶部、鞍部、画部、錦部などさまざまな技術者がみえます。百済への軍事支援などの見返りとして、多数の技術者らが日本にやって来ているのです。それを示すかのように、5世紀後半頃に各種の技術が変革され、生産が拡大する現象がみられます。例えば、馬具の普及とf字形鏡板や剣菱形杏葉の採用などの例があります。
柏原市でも、大県・大県南遺跡で5世紀後半に鉄鍛冶生産が始まります。それ以前から鍛冶生産が行われていた可能性もあるのですが、5世紀後半以降は継続的な鍛冶生産が行われました。百済系の韓式系土器の出土があり、検出している炉の構造が韓国に多い地上式炉であることなどから、百済の技術者によって始められたのではないかと考えられます。高井田山古墳の被葬者は鍛冶生産に直接関わるような人物ではないと思われますが、鍛冶技術者を伴って来ている可能性は十分にあると思います。また、高井田山古墳の被葬者に直接関係なくても、その前後に渡来してきたことは間違いないでしょう。
鍛冶技術のように、遺物や遺構として確認できる生産以外、たとえば織物技術など、あるいは文字の読み書きができる学者や知識人なども一緒に渡来している可能性が高いのではないかと思います。
これらの技術者や知識人らは、王権や各地の豪族のもとで働くようになったと考えられます。大県・大県南遺跡の鍛冶生産の場合、生産が拡大するのは6世紀前半以降であり、6世紀後半にピークを迎えます。当初の技術者は高井田山古墳の被葬者に関連すると考えられますが、6世紀前半以降の生産拡大には高井田山古墳の被葬者は関わっていないと思います。おそらく北の渋川郡を本拠として強大な勢力を築き上げていた物部氏が、大県・大県南遺跡の鍛冶生産を掌握していたのではないかと思います。
それでは、高井田山古墳の被葬者とその親族らは、どこに居住し、その後どうなったのでしょうか。
(安村)
大県・大県南遺跡出土鍛冶関連遺物