【コラム】百済の王族が眠る? 高井田山古墳 (7)飛鳥戸氏と安宿郡
氏族の系譜を集成した『新撰姓氏録』(弘仁6年・815年成立)によると、飛鳥戸造(あすかべのみやつこ)は百済の比有王の男琨伎王あるいは末多王を祖とするとされています。昆支(琨伎)は百済の比有王の子です。461年に渡来したと『日本書紀』に記述があることについてはすでに触れました。末多王は昆支の子で百済に帰って東城王となった人物です。つまり昆支の子孫が日本に残り、その一族が飛鳥戸を名乗るようになったのです。羽曳野市飛鳥には昆支を祀った飛鳥戸(あすかべ)神社があり、飛鳥戸氏が昆支の系譜をひくことは間違いないようです。
柏原市南部と羽曳野市の飛鳥周辺は、奈良時代に安宿(あすかべ)郡になります。どうやら飛鳥戸氏の本拠地は、のちの安宿郡の南部、現在の羽曳野市飛鳥周辺にあったようです。飛鳥戸氏の居住地一帯を7世紀に飛鳥戸評とし、それが8世紀に安宿郡となったのです。それでは昆支一族は、5世紀後半の渡来直後から安宿郡の地に居を構えていたのでしょうか。
ところが安宿郡では、羽曳野市飛鳥周辺でも、柏原市内でも6世紀後半にならないと人々が居住した集落の跡が確認できないのです。古墳も5世紀中頃の古墳を最後に、6世紀後半までみられないのです。6世紀後半以降は8世紀まで集落が継続するようなので、これが飛鳥戸氏と関わると考えられます。
飛鳥周辺には6世紀後半から7世紀にかけて飛鳥千塚古墳群が造営され、鉢伏山西峰古墳や観音塚古墳などの終末期古墳もみられます。正確な位置や規模は不明ですが、河内飛鳥寺跡に伴うとされる巨大な塔心礎もあります。6世紀代に河内から大和へ抜ける道として、もっとも重要な大坂道(穴虫越)が地域内を通過しています。
安宿郡北半は百済からの渡来系氏族である田辺史氏の居住地となり、田辺古墳群や田辺廃寺が造営されています。安宿郡の北は大和川、そして7世紀代に重要な官道となった龍田道が通過しています。安宿郡は、古代河内において交通上重要な位置にあたるのです。
それでは、6世紀後半まで、昆支とその子孫一族はどこに住んでいたのでしょう。どうやら安宿郡ではなかったようです。
(安村)
飛鳥戸神社