【コラム】百済の王族が眠る? 高井田山古墳 (8)大県郡から安宿郡へ
柏原市の北東部は奈良時代以降大県郡でした。南・西は大和川で画され、南は大和川を挟んで安宿郡に接しています。そして、昆支の渡来と深い関係があると考えている高井田山古墳も大県郡にあります。高井田山古墳の年代、大県・大県南遺跡での鍛冶生産を考えると、昆支が最初に居を定めたのは大県郡だったのではないでしょうか。もちろん自ら選んだのではなく、王権から与えられた居住地だったのでしょう。
それでは大県郡を居住地としていた昆支一族が、安宿郡に移住した理由が見出せるでしょうか。それは皮肉なことに昆支らが持ち込んだ鍛冶技術にあったのではないかと考えます。(6)「高井田山古墳と渡来系技術者」でみたように、大県・大県南遺跡の鍛冶生産は6世紀前半以降活発になり、6世紀後半にピークを迎えます。発掘調査成果からも、大県・大県南遺跡周辺の人口が急増したことが窺えます。しかも鍛冶生産の拡大に伴って、樹木が伐採されて山は荒れ、洪水も起こりやすくなっていたことでしょう。鍛冶やそれに伴う木炭の生産などによる煙や臭いも激しくなっていたことでしょう。生活環境の悪化によって新たな居住地を求め、その結果認められたのが安宿郡の地だったのではないでしょうか。
飛鳥戸氏と同じ頃に、同じ安宿郡内に移住した田辺史氏も百済からの渡来系氏族です。もしかすると、昆支が渡来した際に知識集団として田辺史氏が一緒に渡来してきたのではないかと思います。そして飛鳥戸氏の移住とともに、田辺史氏も隣接地に移住することになったのではないでしょうか。田辺史氏は、『日本書紀』の雄略紀に初めて登場します。これも雄略朝に渡来してきた伝承によるものかもしれません。
大県・大県南遺跡の鍛冶生産は7世紀初めに終息し、7世紀になると田辺遺跡で鍛冶生産が大規模に行われるようになることがわかっています。鍛冶技術者の多くが田辺の地に移住したと考えられるのです。なぜ文筆を職とする田辺史氏のもとで鍛冶生産が開始されるのか疑問ですが、一緒に渡来した集団として5世紀後半から6世紀後半まで同じ大県郡に居を構えていたと考えれば、解体された技術者の多くが田辺史氏を頼って田辺の地に移住したと考えても不思議ではないでしょう。昆支は、ともに渡来した技術者や知識人らとともに、まず大県郡に居住することになり、その後6世紀後半に安宿郡に移ったと考えると無理なく理解できるのではないかと思います。
(安村)
安宿郡の遺跡