【コラム】百済の王族が眠る? 高井田山古墳 (5)昆支の渡来
5世紀中頃から百済は北にあった高句麗に攻められ、倭(日本)に軍事支援を求めていました。その見返りとして、王族を人質として倭に送ったり、さまざまな技術者や知識人を派遣していました。その一環として、『日本書紀』には雄略6年(461)に、百済の蓋鹵王(加須利君)の弟である昆支(軍君)が日本にやってきたことが記されています。
昆支は倭に行く条件として、蓋鹵王の妻を自分の妻とすることを求めて許されています。その女性は臨月であり、途中の筑紫の各羅嶋で出産し、その子(嶋君)は百済に送り返されました。それがのちの武寧王です。しかし、臨月の女性を妻として危険な航海をしてまで連れて来ることは考えられません。武寧王は、昆支が倭にやってきたのちに生まれた昆支の子と考えるのが妥当でしょう。
475年に百済は高句麗に攻められ、蓋鹵王一族が殺害されました。そのため漢城(現ソウル特別市)にあった都を、はるか南の熊津(現公州市)に遷して再興することになりました。そして雄略23年(478)に、百済の文斤王が亡くなったので昆支の子である末多王を王として百済に送りました。これが東城王です。そして、その次に王となったのが武寧王です。
高井田山古墳は東城王が百済へ帰った頃に築かれた古墳と考えられます。『三国史記』によると、昆支は475年の百済復興後に百済に帰り、477年に亡くなったということです。しかし、『日本書紀』には昆支が百済に帰ったという記録はありません。百済に帰ってすぐに亡くなったというのも不自然です。その後も昆支の子が倭にいたことはわかっていますので、昆支が百済に帰らずに倭に残っていた可能性もあるのではないでしょうか。そうすれば、高井田山古墳の被葬者として相応しいのは昆支ということになります。
ただ、百済で亡くなったという『三国史記』の記録を無視することもできません。高井田山古墳の被葬者は、昆支がやってきた頃に同じように倭にやってきた王族クラスの人物、昆支の親族などである可能性も考えられるでしょう。『三国史記』の記述が確かならば、昆支は公州の宋山里古墳群のもっとも古い古墳に葬られている可能性が高いのでしょう。しかし、昆支が百済に帰っていたならば、王になってしかるべき人物なのに、『三国史記』の記述は簡単なもので、しかも帰国2年後に亡くなったというのです。もし昆支が帰っていなかったならば・・・。想いはふくらみます。
(安村)
宋山里古墳群