【コラム】百済の王族が眠る? 高井田山古墳 (3)右片袖式石室と夫婦合葬

2023年5月11日

 高井田山古墳に限らず、近畿地方の初期横穴式石室の多くが右片袖式石室の形態をとります。玄室から羨道を見て、右側に壁、左側に羨道が取り付く形態の横穴式石室を右片袖式石室といいます。壁が左にあれば左片袖式、羨道が中央にあれば両袖式、袖が無ければ無袖式です。多くの研究者がこのように呼んでいるのですが、一部の研究者は右と左を逆に呼んでいます。さらに困ったことに、文化庁が発掘調査の基準を示した『発掘調査のてびき―各種遺跡調査編―』(2013)にも入口から見て左右とするべきだと書かれています。
 着物の袖に例えて呼ばれるようになったことを考えると、右袖はどちらにあるでしょう。また、古墳はあくまでも死者を埋葬した墓なのです。被葬者からみての左右であるべきだと思います。資料として古墳をみるだけでなく、あくまでも死者を埋葬した施設として考えなければ、古墳の本当の意味を理解することはできないのではないでしょうか。
 初期の横穴式石室に右片袖式が多いのは、祖形となった百済の横穴式石室に右片袖式が多かったからです。そのため近畿地方の初期横穴式石室は右片袖式に限られ、両袖式や左片袖式は6世紀中頃にならないと出現しないのです。
 それならば、右片袖式が百済の主流だったのはなぜでしょうか。それは袖のある右側に男性を先に埋葬し、あとで左側に女性を埋葬したためでしょう。武寧王陵の場合は、なぜか南枕で埋葬されていますが、右・左の配置は遵守されています。
 高井田山古墳も右(西)に男性、左(東)に女性を埋葬しています。二人の埋葬にどれほどの時間差があるのかわかりません。須恵器の配置から考えると、二人は同時に合葬されたと考えるのが妥当なように思われます。時間差があるとしても、何年も遅れるとは考えられません。百済から伝わった横穴式石室は、男性を先に埋葬する夫婦合葬の埋葬形態として伝わったのです。中国や朝鮮半島の上層階級では、夫婦合葬が正式な埋葬方法となっていたのです。その際に、百済などでは左よりも右が優位であるという考えがあり、その思想も一緒に日本に伝わったようです。それが年月を経て日本に定着していく過程で、夫婦合葬の形態がくずれ、一人の人物のための石室として両袖式石室が普及していくと考えられます。もし女性が先に亡くなったときはどうしたのでしょうか。どこかに仮埋葬をして男性が亡くなってから一緒に合葬されたのでしょうか。横穴式石室は追葬可能な石室として採用されたとよく言われますが、初期のものは追葬を想定していなかったのです。

(安村)

横穴式石室の袖形態

横穴式石室の袖形態

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