【コラム】大和川のつけかえ ほんとうの理由は?(10)通説を見直す
河内の人に大和川の付け替えといえば、中甚兵衛という答えが必ず返ってきます。中甚兵衛が付け替え運動を展開し、周辺村々がその運動に参加し、大きくなった運動を無視することができず、幕府も付け替えを決断することになったというのが、これまでの通説でした。中には甚兵衛が私財を投げ打って付け替え工事を実施したという人もいます。工事を実施したのは幕府であり、甚兵衛が工事を実施できるはずはありません。それだけでなく、これまでの通説も残された史料とは大きくかけ離れているのです。
史料からは、宝永元年(1704)の大和川付け替え工事よりも17年前に付け替え運動は終息していたことがわかります。幕府が付け替え不要を強く主張した結果、人々は付け替えをあきらめ治水工事を求める運動へと変化していました。その運動に参加する人も年々少なくなり、運動がほぼ終息したころ、幕府は付け替えを決定したのです。その理由は、ここまで見てきたように幕府が付け替え工事を、利益をもたらす工事として実施することができたからでした。
それを実践したのは堤奉行の万年長十郎でした。大和川付け替えに最大の貢献をしたのは中甚兵衛ではなく、万年長十郎だったのです。万年は堤奉行となった元禄11年(1698)ごろから付け替えの可能性を検討していたようです。志紀郡舟橋村(現在の藤井寺市)に残された「舟橋村絵図」(松永白洲記念館蔵)には、大和川付け替え地点に存在した舟橋村新家の位置が克明に描かれています。元禄11年に作成された絵図は、付け替え検討の資料として作成されたのではないかと考えられます。その後、付け替え工事の方法について検討を進め、元禄14年までには付け替え実施をほぼ確定していたようです。経済性を重視した万年の綿密な策略が付け替えへと推し進めたのです。
付け替えの立役者とされてきた中甚兵衛が運動に参加するようになったのは、貞享4年(1687)ごろからと考えられます。その後、運動は終息へと向かい、周辺の村々は次々と離脱、甚兵衛は孤立し、偽の押印をした嘆願書の作成など、運動はあらぬ方向へと向かいました。それでも運動を続けていたことが、幕府が付け替えを検討することに結びついたのは間違いなく、その点で甚兵衛は評価されるべきだと思います。
(安村)
舟橋村絵図(松永白洲記念館所蔵)