【コラム】大和川のつけかえ ほんとうの理由は?(9)付け替え、ほんとうの理由
河村瑞賢が河口を中心とした流域の工事を実施しても洪水がなくならなかったことが、大和川の付け替え工事をもういちど考えるきっかけになったことはまちがいありません。また、治水工事の嘆願に変わっていたとはいえ、運動が続いていたことも付け替え工事再検討に影響を与えたことでしょう。しかし、付け替え工事を実施することになった最大の理由は、大きな費用負担を伴うと考えられていた付け替え工事を、幕府に利益をもたらす工事として実施できたことにあると考えて間違いないでしょう。
この方法を考え出したのは、堤奉行の万年長十郎です。万年は、まず短期間で安価に工事ができる方法について考えたのでしょう。その結果ができるだけ川底を掘らず、掘削土と盛土量を等しくするという工法だったのでしょう。そして、その工事に大名を手伝いとして参加させる。すべて大名手伝いとすると不満が出ると考え、幕府も応分の負担はする。その負担分を新田開発に伴う権利金で補填することにしたのです。新田開発で、どの程度の収入があるか。積算に際しては、町人や中甚兵衛らの意見を参考にしたと考えられます。
工事費の積算額が7万両余り、新田開発権利金の積算額が3万7千両余り。その差額3万数千両を大名の負担として工事を実施する。そうすれば、工事費に対する大名の負担額は半分弱となり、大名も不平を言うことはできない。このように考えて付け替え工事に臨んだのでしょう。その後新田から納められる年貢が幕府の利益となるのです。
中甚兵衛は万年長十郎に度々呼び出されていたようです。また記録には残っていませんが、町人とりわけ鴻池などは万年と接触していたと考えられます。それまでの経験や新田開発の方法、収穫高などを甚兵衛や町人から情報を集めて積算したのでしょう。その結果、旧大和川流域の農民が待ち望んでいた大和川付け替えが実現したのですが、それは決して農民のための付け替えではなく、幕府の利益のための付け替えだったのです。
(安村)
川違新川普請之大積り(中家文書)