【コラム】大和川のつけかえ ほんとうの理由は?(7)理由6 付け替え工事に大名を参加させた。
幕府は付け替え工事実施に伴って、各地の大名に工事に参加するように命令しました。大名は、幕府の命令なので断ることができません。このような工事を大名手伝普請(だいみょうてつだいふしん)といいます。
最初に手伝いを命令されたのは姫路藩でした。姫路藩は川下から工事に着手しました。ところが着手して間もなく、姫路藩主の本多忠国が死去したため、工事から撤退することになりました。これで工事は中止になるのではないかという噂が流れたようですが、幕府の対応は素早く、代わりの藩を指名して一ヵ月後には工事を再開しています。この際に川上側半分は幕府の直轄工事とすることを発表しています。当初から半分を幕府直轄とする予定だったのか、それとも姫路藩にすべて請け負わせるつもりだったのか、史料からははっきりしませんが、残りの区間を三等分して、川上から岸和田藩、三田藩、明石藩が担当することになりました。その後、付帯工事を行うように柏原藩、高取藩も参加して工事が進められました。
ところで幕府が担当した川上側は川底を掘らずに堤防を築くだけの比較的単純な区間でしたが、大名が担当した区間は困難な区間でした。明石藩が担当した上町台地の掘削部分は、かなり苦労しただろうと想像できます。総工事費は約71,500両を要したようです。そのうち幕府が約37,500両を負担し、約34,000両を各藩が負担したようです。財政難に苦しむ藩も多く、大和川付け替え工事への参加がかなり後まで藩財政を苦しめたようです。理由5でみたように、幕府の負担額は当初から決まっており、残りを各藩に負担させたのです。各藩は少しでも早く、安価に終わらせようと工事をがんばったようです。
大和川の付け替え工事は大名手伝普請としては大規模なものでした。これで味を占めた幕府は、これ以降たびたび大名手伝普請を命じるようになります。木曽三川の治水工事や宝永の富士山噴火の処理などでみられます。幕府も財政難に困っていたための処置だったようですが、工事を命じられた藩にとっては迷惑な話でした。
(安村)
大和川付け替え工事の分担