【コラム】大和川のつけかえ ほんとうの理由は?(5)理由4 工事を求める運動が続けられていた。
付け替えを求める運動は貞享4年(1687)に終わり、それからは治水工事を求める運動に変わりました。貞享4年1月頃の付け替え嘆願書では15万石の百姓からの願いと記されていましたが、その年の3月には7万石、元禄2年(1689)には3万石、元禄14年(1701)頃には42か村(約2万石くらいか)と運動に参加する村も減少していました。
ここまで紹介してきたように、幕府が付け替え不要という方針を決定したため、河内の農民は付け替えをあきらめて治水工事へと方針転換していました。そのうえ運動に参加する村もどんどん減っていたのです。これは、洪水が玉櫛川筋に集中するようになり、久宝寺川筋ではあまり起こらなくなっていたことが原因と考えられます。また、幕府に睨まれてまで、実現性の薄い付け替えや治水工事を訴えても意味がないというあきらめも大きかったと思います。
それでも運動を続けている人たちがいたという事実を重視しなければならないと思います。運動がまったくなくなっていれば、幕府が付け替えを検討することもなかったでしょう。たとえ小さくなっても、付け替えから治水工事に変わっても、運動が続いていたのです。この運動の中心人物が中甚兵衛でした。甚兵衛が50年以上も付け替え運動の中心人物だったという記述をしばしば見かけますが、貞享4年以前の史料からわかるのは、運動の中心人物は芝村の曽根三郎右衛門と吉田村の山中治郎兵衛だったということです。どこにも甚兵衛の名は見えません。中家に残された付け替え関連史料でもっとも古い史料が貞享4年の史料なので、この頃から甚兵衛が付け替え運動に関わるようになったと考えて間違いないでしょう。
つまり、甚兵衛はどんどん衰退していく運動の中心人物だったのです。そして嘆願書に偽の印を押しているなどの事実は、甚兵衛の運動がほかの村々からほとんど支持されていなかったことを示しています。甚兵衛は孤立していたのです。それでも運動を続けていた、そこにこそ甚兵衛を評価することができると思います。事実を曲げて甚兵衛をヒーローのように扱うことは慎まなければならないと思います。
(安村)
付け替え賛成派と反対派