【コラム】大和川のつけかえ ほんとうの理由は?(4)理由3 河村瑞賢の死。

2022年9月22日

 河村瑞賢は伊勢国度会郡東宮村で生まれました。明暦3年(1657)の江戸大火の際に木曽の山林を買い占めて巨利を得たとされています。また、東廻り航路、西廻り航路の整備や鉱山開発など多方面で能力を発揮しました。現代風にいえば優秀な実業家でした。その土木・治水に関する知識を期待され、天和3年(1683)の幕府の付け替え検分に同行し、その結果、瑞賢の意見が採用されて付け替え不要という結論になりました。
 翌貞享元年(1684)から瑞賢は淀川河口を中心とした工事に着手します。河口の水の流れがよくなれば、大和川の洪水はなくなると考えていたのです。この際に安治川の開鑿などを実施しています。
 元禄11年(1698)から12年(1699)にかけて、瑞賢は二期工事を実施しました。掘江川の開鑿や新田開発などを行っています。この工事を終えたのが元禄12年の3月。ところが江戸へ帰った瑞賢は、その年の6月に亡くなっています。
 瑞賢は経済を重視する人物でした。天和3年(1683)の検分に同行し、畿内の川を見て回った結論が付け替え不要だったのです。経済人の瑞賢は、大坂のまちの水はけをよくすること、舟運の便をよくすることなどを重視し、洪水に苦しむ農民をおろそかにしていたことは否めないと思います。幕府も瑞賢の意見を取り入れ、付け替え不要という結論を出したのです。水の流れさえよくすれば、洪水は防げると考えたのです。そのために巨費を投じて瑞賢に工事をさせていたのです。
 強硬な付け替え不要論者であった瑞賢が亡くなったことで、万年長十郎も付け替えが可能かどうか、考えやすくなったことでしょう。そして、幕府は付け替え工事へと急速に方針を変えていったようです。幕府の考えかたが変わった一つの理由が、河村瑞賢の死だったと考えられます。

(安村)

コラム4

「摂河両国水脈図」部分(柏元家文書)

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