【コラム】大和川のつけかえ ほんとうの理由は?(3)理由2 万年長十郎が幕府の役人になった。
万年長十郎は、天和3年(1683)に畿内と丹波・播磨・備中の代官となりました。5回めの大和川付け替え検分が行われ、付け替え不要という結論が出された年です。万年は元禄年間に大坂川口の新田開発を認めています。この頃、原則として町人による新田開発は禁止されていたのですが、新田からの年貢増加による経済的利益を優先していたようです。万年は経済的で合理的な政策を進めましたが、その背後には幕府の財政立て直しを図っていた勘定奉行の荻原重秀の存在も見逃すことができません。
この万年が元禄11年(1698)までに、大和川や淀川を管理する堤奉行にも就任していました。万年は合理的な視点から大和川付け替えを検討し、荻原の指示で付け替え事業に取り組んだのではないかと考えられます。つまり、付け替え工事を幕府の利益に結びつけることができないかと考えたようです。
河村瑞賢の二期工事は元禄12年(1699)に終わりましたが、その翌年・翌々年にも河内平野は洪水に見舞われたようです。元禄14年(1701)には、中甚兵衛の今米村でまったく米が収穫できなかったという記録が残っています。この様子を検分に来た幕府の役人に、河内の42か村が復旧工事の実施を求めたところ、付け替えを検討していることを告げられたということです。流域の人々がすっかりあきらめていた付け替えが実現するかもしれないと喜ぶ様子が目に浮かびます。それとは反対に、付け替え予定地の村々では、絶対にないと確信していた付け替えが実施されるかもしれないと驚き、嘆き悲しんだことが記録に残っています。このあと付け替え反対運動が活発になりますが、幕府はまったく相手にしませんでした。
付け替え実施を検討する万年長十郎は、中甚兵衛を何度も呼び出して意見を求めたようです。新田開発を希望する町人などの意見も聞いていたことでしょう。そして、付け替え工事が幕府に利益をもたらす方法を考え出したのです。付け替え工事の方針が決まると、あとは実施に向けて急速に進んで行きました。大和川付け替えの中心人物は、中甚兵衛ではなく万年長十郎だったのです。
(安村)
大和川附換摂河絵図(中家文書)