【コラム】大和川のつけかえ ほんとうの理由は?(2)理由1 いくら工事をしても洪水がなくならなかった。

2022年9月8日

 幕府は、天和3年(1683)に5回めの大和川付け替え検分を実施しています。洪水が繰り返される大和川流域だけでなく、付け替え予定地でも地形調査などを実施し、付け替えが必要かどうか検討したのです。このときには、従来の付け替えルート(現在の大和川のルートにほぼ同じ)よりも北寄りの阿部野へ流すルートも検討しています。その結論が、付け替えは必要ないということだったのです。淀川と大和川が合流する地点よりも下流の水の流れさえよくすれば、大和川の付け替えなど必要ないということになりました。その意見を強く主張していた河村瑞賢が、淀川を中心に川を広げたり掘り下げたりする工事を行い、この際に安治川の開鑿などが行われています。幕府は、これで洪水の心配はないと考えたようです。
 この工事で下流の水の流れはよくなったようですが、河内の農村では相変わらず洪水が繰り返されていました。工事がほぼ終わった貞享4年(1687)の1月頃、再び付け替えを求める嘆願書が幕府に提出されました。この嘆願の中心人物が中甚兵衛だったと考えられ、これ以降甚兵衛が運動の中心となっていくようです。ところが、幕府は付け替え不要と決めて河村瑞賢に工事を行わせたばかりです。この訴えに対する答えは厳しいものだったようで、同じ年の3月の嘆願書では付け替えをあきらめて治水工事を求める訴えに変わり、参加する村々も15万石から7万石へと半減しています。これ以降、運動に参加する村は減り続け、訴えの内容も小規模なものになっていきます。
 河内の洪水がなくならないためか、瑞賢は二期工事にかかり、元禄12年(1699)に工事が終わりました。ところが、その直後の元禄13年、14年にも大きな洪水がおこりました。甚兵衛の今米村では、まったくお米ができなかったという記録が残っています。いくら工事をしても、洪水がなくなるどころか、どんどん激しくなっていたのです。幕府も本当に付け替え工事をしなくても大丈夫なのかと考え始めたようです。

(安村)

コラム2

堤切所之覚附箋図(中家文書・貞享4年・1687年)

【コラム】大和川のつけかえ ほんとうの理由は?

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