【コラム】大和川のつけかえ ほんとうの理由は?(1)つけかえをめぐって
現在の大和川の柏原より下流部分は、江戸時代の宝永元年(1704)に付け替えられた人工の川です。それまでの大和川は、柏原から北または北西に流れ、京橋付近で旧淀川(現在の大川)に流れ込んでいました。大和川の付け替えに関わった人物として、中甚兵衛がよく知られています。中甚兵衛を中心に付け替えを求める運動が大きくなり、最後には幕府の考えも変わり、付け替え工事が行われるようになったという話をよく聞きます。あるいは甚兵衛が付け替え工事を実施した。中には甚兵衛が私財を投入して付け替えを実現したという話もありますが、これらはいずれも大きな間違いです。
付け替え工事を実施したのは幕府です。甚兵衛も工事に参加していますが、決して指導するような立場ではありません。また、付け替え運動が盛り上がっていたというのも大きな間違いです。付け替えよりも21年前に幕府は決して付け替えをしないと決めていました。そのため、みんな付け替えをあきらめ、水がうまく流れるような治水工事を求める運動に変わり、その運動もほとんどなくなったころ、幕府は急に付け替えることを決めたのです。
それでは、どうして運動もほぼ終息しているなか、幕府は付け替えることを決断したのでしょうか。いつまでも洪水がなくならなかったことも理由の一つですが、それよりも大きな理由がありました。幕府は農民のことよりも、自分たちのことを中心に考えていたようです。ほんとうの理由とは何か?ここでは7つの理由をあげて考えてみたいと思います。
(1)いくら工事をしても洪水がなくならなかった。
(2)万年長十郎が幕府の役人になった。
(3)河村瑞賢が死んだ。
(4)工事を求める運動が続けられていた。
(5)つけかえ後にもとの大和川が新田に開発された。
(6)つけかえ工事に大名を参加させた。
(7)むだのない工事をおこなった。
(安村)
つけかえ前の大和川