【コラム】聖徳太子と柏原(8)高井寺(こうせいじ)縁起(えんぎ)

2022年5月24日

 柏原市高井田に高井寺という融通念仏宗の寺院があります。この寺院に伝わる「高井寺縁起」にも聖徳太子が登場します。「縁起」とはその寺院の由緒などを記したもので、「高井寺縁起」は字体や用紙などから江戸時代前期頃に書かれたものと考えられます。
 そこには「高井寺は聖徳太子の開基で百済の入法師が伽藍を造立した」と書かれています。この地を気に入った聖徳太子は、精舎を建て、六尺の阿弥陀如来像を安置したということです。この阿弥陀如来像は、太子が初めて彫った阿弥陀像だといいます。
 斑鳩寺(法隆寺)にいた入法師は、皇極2年(643)に上宮王家が蘇我入鹿に攻撃されて滅んだ際に、斑鳩寺に留まることができなくなりました。そのため畿内各地を遍歴したのちに高井田に至り、聖徳太子が建立したという仏館の存在を知り、伽藍を造営して寺院名を高井田寺または山下寺と称したということです。『聖徳太子伝補闕記』には、百済入師が斑鳩寺火災ののちに川内(河内)に高井寺を建立したとみえます。同じような話ですが、斑鳩寺の火災は天智9年(670)であり、皇極2年ではありません。
 また「縁起」には天平勝宝8歳(756)に聖武天皇と光明皇后が智識寺へ行幸した際に当寺にも行幸したと書かれています。しかしこのときの天皇は孝謙天皇であり、聖武が行幸に同行していることは間違いありませんが、寺院に参拝したという記録はみえません。
 このように、本縁起は『日本書紀』『万葉集』『続日本紀』『聖徳太子伝補闕記』などからの引用を中心に構成されたものですが、引用の際の不備なども多数みられます。『聖徳太子伝補闕記』にみえる高井寺は鳥坂寺のことと考えられますが、本縁起には鳥坂寺の名称は一切みえません。それどころか、どうやら当地にあった寺院は「山下寺」であったと考えていたようです。
 「高井寺縁起」の内容を信じることはできませんが、斑鳩寺の焼失と鳥坂寺建立年代が近いことを考えると、鳥坂寺と法隆寺が何らかの関係にあったのかもしれません。また鳥坂寺の瓦や周辺出土資料に百済との関連を想定できることを考えると、百済法師の建立を伝える伝承が鳥坂寺と百済との何らかの関係を示しているのかもしれません。伝承の中に歴史的事実を見出すことができるかもしれません。

(安村)

コラム8高井寺縁起

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