【コラム】聖徳太子と柏原 (6)聖徳太子と智識寺

2022年5月10日

 智識寺は、柏原市太平寺にあった寺院で、天平12年(740)に聖武天皇が智識寺の蘆舎那仏を礼拝し、それが東大寺大仏の機縁となったことで有名です。その後、天平勝宝元年(749)と8年(756)には孝謙天皇も参拝しています。
 その智識寺は、聖徳太子建立の46ヶ寺の一つとされています。太子建立寺院の中に河内太平寺とあり、『太子伝古今目録抄』に、太平寺とは智識寺のことであり、丈六観音像があると記されています。しかし、智識寺の創建は7世紀中頃から後葉頃なので、太子が活躍した7世紀初めとは考えられません。また、寺院名から仏教を信仰する知識によって建立されたことは間違いないと考えられ、聖徳太子や上宮王家の直接の関わりは考えられません。おそらく智識寺のような著名な寺院は、聖徳太子に関わりがあったに違いないと考えられたのか、もしくは智識寺の僧侶らが寺の由緒を語る際に太子と関係があったことにしたのかのどちらかでしょう。
 『聖徳太子伝暦』に、太子が次のような予言をしたと記されています。「河内に至り、茨田寺の東の側わらに駐まる。北のかた大県山の西下を望み、左右に謂うて日はく、一百年の後ち、一りの愚僧あり、彼しこにおいて寺を立て像を造るに高大ならん。」。
 茨田寺は、柏原市安堂町にあった家原寺のことと考えられます。孝謙天皇が天平勝宝元年の智識寺行幸の際に茨田宿禰弓束女の宅を行宮としたことがみえるように、この地で有力な氏族であった茨田氏が家原寺の維持管理にあたる中心氏族だったことから茨田寺と呼ばれることもあったのでしょう。大県山とは、柏原市大県の東にそびえる高尾山のことと考えられます。そして、その西下の高大な像があった寺とは智識寺のことと考えて間違いないでしょう。つまり、太子は家原寺の東から北を見て、そこに百年後に立派な寺が建立されることを予言していたというのです。
 しかし、家原寺の創建も7世紀後葉です。智識寺やそこにあった蘆舎那仏、観音立像が素晴らしいものであったことを太子に結びつけた、もしくは僧侶らがそのように考えたことによるものであり、太子信仰の一つのかたちと考えられます。

(安村)

コラム6石神社境内にある智識寺東塔の心礎

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