【コラム】聖徳太子と柏原 (7)法隆寺の所領

2022年5月17日

 天平19年(747)の『法隆寺伽藍縁起並流記資財帳』に、大県郡に法隆寺の荘一処があったことが記されています。荘とは荘園のことであり、ほかでは水田〇町などと書かれているところが多いのですが、大県郡では荘一処と書かれているだけです。荘園を管理するような施設があったということだと考えられますが、水田以外の何を管理していたのでしょうか。たとえば、物流の拠点となるような施設かもしれません。
 鬼頭清明氏は、法隆寺の庄倉が存在した地から法隆寺系軒瓦の出土する例が多いことを指摘しています。そこで注目されるのが、大県4丁目の山下寺跡(大県南廃寺)から出土している法隆寺西院系の軒丸瓦です。複弁八葉蓮華文軒丸瓦で、中房と呼ばれる中心部分には蓮子と呼ばれる小さい突起が三重にめぐっています。外側の外区と呼ばれる部分には、段によって表現された鋸の歯のようなギザギザの文様、面違鋸歯文が施されています。これと同じ文様の瓦が法隆寺西院から多数出土しています。西院とは天智9年(670)の焼失後に再建された現在の法隆寺の伽藍のことです。
 鬼頭氏の指摘と山下寺跡から出土した複弁蓮華文軒丸瓦から、大県付近に法隆寺の何らかの施設があった可能性が考えられます。奈良時代に河内六寺と法隆寺のあいだに、何らかの関係があったのではないでしょうか。智識寺に関わる聖徳太子の伝説も、そのような中から生み出されたものではないかと考えます。
 『法隆寺伽藍縁起並流記資財帳』には、志紀郡にも水田1町と庄一処があったと記されています。志紀郡の船橋廃寺から山下寺跡出土瓦と同じ文様の軒丸瓦が出土しています。志紀郡はかなり広いため、1点の瓦で決めることは難しいのですが、船橋付近に法隆寺の所領があった可能性があります。水田1町ならばそれほど広いものではありません。やはり大和川水運の利用などによる物流に伴う施設などを考えるのがいいのかもしれません。
 このように、奈良時代に柏原付近と法隆寺とは何らかの関係があったと考えられます。この関係が、もしかすると聖徳太子の時代まで遡るのかもしれません。

(安村)

コラム7山下寺跡出土法隆寺西院系蓮華文軒丸瓦

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