【コラム】聖徳太子と柏原 (9)聖徳太子の棺

2022年5月31日

 柏原市玉手町に安福寺という浄土宗の寺院があります。安福寺には柏原市有形文化財に指定されている夾紵棺の断片が所蔵されています。夾紵棺とは、布と漆を交互に塗り重ねて作られた棺です。高度な技術と時間を要する高級な棺で、これまでに国内で7例が知られています。その中で構造までわかるのは、茨木市の阿武山古墳出土棺と明日香村の牽牛子塚古墳出土棺の2例だけです。どちらも麻布を重ねたもので、前者が20枚余り、後者が35枚の麻を重ねて作られています。ところが安福寺の夾紵棺は絹布を45枚も重ねたもので、これまで確認されている夾紵棺の中でもっとも丁寧に作られたものです。この夾紵棺が聖徳太子の棺の断片ではないかと考えられているのです。
 夾紵棺は皇族など身分の高い人物に限って使用された棺と考えられます。阿武山古墳は藤原鎌足の墓ではないかと考えられています。牽牛子塚古墳は斉明天皇陵と考えられています。天武天皇の棺も夾紵棺だったことは間違いないようです。そして、太子町叡福寺にある聖徳太子墓とされる叡福寺北古墳にも夾紵棺が安置されていました。明治12年に叡福寺北古墳の石室内が調査され、夾紵棺の断片が2斗(36ℓ)あったということですが、実物の所在が不明となっています。
 安福寺の夾紵棺は3辺が破損しており、棺の小口部分と考えられ、幅1mの棺と復元できます。阿武山古墳の夾紵棺の幅は62cmで、牽牛子塚古墳の夾紵棺は幅がわかりませんが、棺台の幅が78cmでした。天武天皇の棺台の幅も75cmで、いずれも安福寺夾紵棺よりもかなり小さいものです。ところが聖徳太子の棺台の幅は111cmだったことがわかっています。聖徳太子墓ならば幅1mの棺がうまく納まるのです。そのため安福寺の夾紵棺が聖徳太子の棺だったのではないかと考えられているのです。
 どうして聖徳太子の棺の一部が柏原の安福寺にあるのでしょうか。江戸時代前期に安福寺を復興した珂憶は、聖徳太子を尊崇していたようです。そのため叡福寺や四天王寺にさまざまな寄附をしています。聖徳太子のお墓に仏舎利を寄附したという記録もあります。このようなお付き合いの過程で珂憶が太子の棺の一部をいただき、安福寺に所蔵されるようになったと考えてみたいと思います。さて、真実はどうなのでしょうか。
コラム「安福寺の夾紵棺」もご覧ください。もっと詳しく書いています。

(安村)

コラム9安福寺所蔵の夾紵棺

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