【コラム】聖徳太子と柏原 (1)太子信仰
聖徳太子の没年は、『日本書紀』や『聖徳太子伝暦』では推古29年(621)2月5日とされていますが、『法隆寺金堂釈迦如来像光背銘』『中宮寺天寿国曼荼羅繍帳銘』『法起寺塔露盤銘』『上宮聖徳法王帝説』などでは推古30年(622)2月22日とされており、後者のほうが正しいと考えられています。つまり今年(2022年)で没後1,400年となります。
聖徳太子は死後に聖人として尊崇され、人々から信仰の対象となりました。これを聖徳太子信仰、太子信仰といいます。太子信仰は、奈良時代に皇族や僧侶のあいだで広まり、平安時代以降に盛んとなり、中世には一般人にまで広まりました。この太子信仰の広まりとともに、さまざまな伝説が生まれました。奈良時代初めの720年に成立した『日本書紀』にもその萌芽がみられます。たとえば、生まれてすぐに話すことができた、一度に十人の訴えを聞くことができた、などはよく知られています。
聖徳太子に関する史料の多くがこのような伝説であることなどから、聖徳太子は実在しなかったという説もあります。しかし、史料をじっくり読み解けば、推古天皇のもとで蘇我馬子とともに政治・経済・文化の興隆に尽力した聖徳太子の存在を否定することはできないと思います。
当館では、春季企画展として「聖徳太子の伝説と真実-柏原・王寺・三郷の道と寺-」と題した展示を実施します。この企画展は、奈良県王寺町・三郷町との共催事業です。柏原市と王寺町・三郷町は大和川や龍田古道で結ばれており、それを利用して往来を重ねたであろう聖徳太子にまつわる伝説が数多く残されています。伝説には信じることができない話が多いのですが、伝説として切り捨てるのではなく、道と寺をキーワードにその伝説が生み出された歴史的背景について考えることによって真実に迫ってみたいと思います。
聖徳太子にかかわる伝説は、柏原にもいくつか残されています。それらの伝説を中心に、「聖徳太子と柏原」と題してコラムを紹介していきたいと思います。聖徳太子とはどんな人物だったのか。柏原とどんな関係があったのだろうか。みなさんも想像の翼を広げながら、一緒に考えてみてください。
(安村)
聖徳太子墓(叡福寺北古墳)